遠くの星

39.贖罪



 ナツ、と名を呼ぶトモ兄の声が揺れている。私は眉間に力を込めた。
「……何度も、夢に見るんだ」
 私を見下ろすトモ兄の目から、また一粒、涙が零れた。和人さんの記憶の檻の中から、囚われたトモ兄の心が少しずつもがいて逃げようとしているように、じんわりとした滴が目の中に浮かんでから落ちるまでは、もどかしいほどにゆっくりだった。
 けれど、それでもそれは、確実に形となって、トモ兄の言葉と一緒に外に出ようとしていた。
 ぽとり、ぽとり、と。
「愛していた女の子の胸に、刀を突き刺す瞬間を。手応えも、感触も、小刀を伝って自分の手にまで滴る赤い血のねっとりとした生暖かさも、なにもかも、自分の経験として甦るんだ。奈津の呻き声も、自分自身の獣みたいな叫びも、耳について離れない。子供の頃から、繰り返し、繰り返し、映像を再現するように夢で見て、そのたびに、和人として、怒って、嘆いて、愛して、憎んで、最後には完全に狂ってしまうんだ。目が覚めた時、僕はいつだって、自分が誰なのかよく判らなかった」
「トモ兄はトモ兄だよ」
 私はトモ兄に向かってそう言ったが、実のところ、その言葉にトモ兄の気持ちを少しでも楽にさせてあげられる何かがあるのかは、まったく判らなかった。
 私はトモ兄が持つ、前世との一体感が理解できる。誰にも信じてもらえなくても、誰にも判ってもらえなくても、私だけは共感できる。けれどその共感は、短期間のうちに奈津の記憶を一気に取り戻した私と、子供の頃からずっと和人の記憶を連続して見続けていたトモ兄との間では、おそろしく深い溝がある。夢の中で何度も、それもリアルな 「自分自身の経験」 として、人殺しを繰り返してきたトモ兄に、私の声は、一体どれほどの重さをもって届くのだろう。
 ──でもトモ兄。
 でも、私は、トモ兄の告白をすべて、最後までちゃんと聞くからね。
 トモ兄には、多分もっと早いうちに、一人きりで溜め込んだものを、全部綺麗に吐き出す機会が必要だったのだ。和人ではなく、知哉として。それを聞き届けられるのは、この世界でたった一人、私しかいなかったのに、私は今までそれに気づけなかった。その機会を、作ってあげられなかった。
 だから、何があろうと、必ず最後まで聞くからね。
「誰に言っても、笑われるだけだった。ただの夢だよと、何度も言われた。そうだ、僕だって、何度も夢だと思い込もうとした。夢は夢だと。僕は誰も殺してなんていないと」
「うん」
 私は頷いたが、トモ兄は首をゆるりと振った。
「──でも、ダメだった。夢の中で、僕はやっぱり和人という男として、奈津の命を奪うことを繰り返す。自分で殺しておいて、倒れた奈津を見て、大声で泣き叫ぶ。死にゆく奈津に、どうして、どうしてと喚き続ける。後悔して、生き返ってくれと願って、それが無理だと知り、絶望する。勝手だね。それくらいなら、最初からそんなことをしなければいいのに……。でも、それが判っていても、夢の中で僕は何度も同じことをしてしまうんだ。奈津を刺して、手を血塗れにして、頭を掻きむしって、罪の重さに慄いて」
「……うん」
 それが本当の 「夢」 であればよかったのにね、トモ兄。夢だったら、もっと自分の願望や深層心理の反映された結末に方向転換させることだって出来たはず。
 けれどトモ兄のそれは夢であると同時に記憶でもあって、だからトモ兄は何度も何度も同じ場面を見なければならなかったのだ。拷問のように。何かの罰のように。
 ……トモ兄自身は、罰を受けなければならないようなことを、何ひとつしていないにも関わらず。
「小学生の頃からそんな夢を見続けて、僕は正直、かなり歪んだ性格の持ち主になった。表向きは優等生を演じて、でも内心では常に、真っ暗な鬱屈を抱えてた。多分、あのままだったら僕は、遠からず発狂していたか、とんでもない犯罪を引き起こしていたか、自分で自分の命を絶っていたと思う。けど──」
 そこで、トモ兄はふと言葉を途切れさせ、私に向けていた目を細めた。優しく、穏やかに。
 幼い頃、私の頭を撫ぜてくれた時と同じような眼差しで。
 でも、手に握っているナイフは、変わらず私に向けられたまま。
「けど、ある日、気がついたんだよ。僕に懐いて、慕ってくれる従妹のちっちゃな女の子が、夢の中に出てくる女の子と、まったく同じ目をしていることに」
 ともにい、と舌足らずな声で呼んで、自分を見上げてくる幼い女の子の目が。
「和人と奈津は幼馴染でもあったからね。僕は、奈津という娘の小さな頃の顔もよく覚えてた。顔立ちはちっとも似ていなくても、ナツの目は、幼い頃の奈津とまったく同じものだった。素直で、純粋で、屈託がなくて、僕に対して、まじりけなしの信頼を向けていた。……その時、僕は判ったんだ。この子は奈津だって。和人が生まれ変わったように、奈津もこの世界に生まれ変わったんだって」
 嬉しかった、と、トモ兄はどこか夢見るような表情で、幸福そうに微笑んだ。

「本当に、嬉しかった。ナツを見ていると──僕は、奈津を殺してなんていない、と思えたから」

 微笑みながら、また、ぽとりと涙を落とした。
「だって、『奈津』 は、こうして、僕の目の前で生きてる。ちゃんと生きて、動いて、喋って、笑ってる。奈津は生き返って、和人の罪は帳消しになった。これで前世の悲劇は、なかったことになった。今度こそ、僕が君を手に入れて、ちゃんと幸せにしてあげられたなら、それで人殺しの結末は回避できる。リセットして、やり直すことが出来る。今度こそ、一緒になろうという、あの約束を実現できたなら」

 ──今度こそ、約束を叶えよう、ナツ。

「ゲームみたいにね。前回は間違ったルートを辿ってバッドエンドを迎えてしまったから、今度は正しいルートを行けばいい、と思ったんだよ。そうすれば、めでたしめでたしだ、何の問題もない。僕は悪夢から解放されて、このやり場のない罪悪感からも逃れられる。和人が奈津に出来なかった贖罪を、僕はナツに対してしようとした」
 けど、とくぐもった声が唇の端から漏れる。細められた目が、わずかに歪んだ。
「……けど、時間が経つにつれて、だんだん、つらくなってきた。償うどころか、苦しさは増していく一方だった。ナツはいつも、僕に無邪気な信頼を寄せてくる。僕の言うことは、なんでも鵜呑みにしてしまう。他の人間みたいに何かの思惑を持って褒めるんじゃなくて、トモ兄はすごいね、頭がいいね、って、イヤになるほど素直に感心して言うんだ。いつだって、まったく裏なんか見ようともしないで、心をあけっぴろげにして、ただ天真爛漫に、トモ兄、大好きだよって……いつも、そう、言ってくれて、いた」
 涙に滲んだ声が震えている。ナイフを持つ手も、小刻みに震えていたけれど、トモ兄は決してそれを離そうとはしなかった。
「僕は次第に怖くなってきた。もしもナツが、前世のことを思い出したらどうなるんだろう。自分が昔、僕に殺されて生を終えたことを知ったら、どうするんだろう。その瞳にある無邪気な信頼の色は消え失せて、僕を怯えたように見るようになるんだろうか。この偽善者、人殺し、って僕をなじったりするんだろうか。いつその日が来るんだろうかと思うと、怖くて──でも、その日が来るのが、待ち遠しくもあった」
 トモ兄は私を殺したの? と訊ねられる日を、怖れ続け、焦がれ続けて。
「ナツが僕を糾弾したら、どんなに辛いだろう、でも、どんなに楽になるだろう、と思った。ナツはこの世でただ一人、僕を責める権利がある。いつナツがそのことを思い出すのかと、僕はずっと、びくびくしながら待ち続けていた」
 そして、あの中二の夏。
「驚いた。ナツが持つ前世の記憶は、ものすごく重要な場面なのに、いちばん核心の部分だけが覆い隠されていた。それほどまでに、奈津にとって、あの記憶は、忌まわしく、ショックだったのか……思い出したくもないこと、だったのかと」
 涙に濡れた目を伏せて、トモ兄は少し皮肉げに嗤った。その瞳の中に、ちらりと真っ暗な闇が顔を覗かせる。

 ……そうまでして、奈津という娘は、和人という存在を拒絶し、否定しようとするのか、と。

「そう思ったら、どうしようもなく奈津が憎くなった。僕の罪も、僕の矛盾も、なにも知らずに、兄のように僕を慕ってくれるナツも腹立たしかった。君は僕に対して、もっと怒って、責めて、嫌悪しなきゃいけなかった。まっすぐに僕を見る君の汚れのない目が、僕はたまらなく、怖かった」
 ──だから、騙したんだ、とぽつりと言った。
「僕とナツが前世で愛し合っていた恋人同士だったと。だからナツが好きになるのも僕だけだと、君の耳に囁き続けて。そうして、君に歪な感情を植えつけていった。だんだん、ナツが困ったように僕を見るようになって、時々、僕に対してひどく怯えるようにもなった。奈津みたいに。僕は途中から、よく判らなくなっていった。僕はナツをどうしたいんだろう。今度こそ幸せにしたいのか、嫌われたいのか。無邪気なままでいて欲しいのか、僕と同じように歪ませたいのか。……愛したいのか、憎みたいのか」
 茫洋とした視線を、宙に泳がせる。
「……でも、君に、好きな男が出来たと知って」
 視線がまたこちらに戻ってきたが、あまり定まっているようには見えない。現在のトモ兄の混乱を示すように、ゆらゆらと揺れている。
「また、僕の手から逃げるのかと思ったら、抑制が利かなくなった。これじゃあ、また同じことの繰り返しだ。悪夢が頻繁に甦って、まるで和人が、僕を追い立てているみたいだった。早く手を打て、って。そうしないと逃げられる、って。逃げる前に、どうにかしないと、って」
 早く、早く、早く、と、トモ兄を苛む声。
 婚約を申し出て、恋敵を排除して、奈津を手の平で囲い込んで。前と同じように。でも、前と同じことにはならないように。今度こそ、決して逃げられないように。
 トモ兄は、必死だったのだ。
「──ナツ、僕は」
 呻くような声を絞り出し、トモ兄は持っているナイフの手に、力を込めた。もう片方の手を添えて、両手で握り、しっかりと刃先を私に向ける。
「僕はもう、駄目だ。これ以上、和人の狂気に逆らいきれない。頭の中で、逃げられるくらいなら殺してしまえ、殺せ、殺せって声ががんがん響いて、もう正気を保っていられない。今日だって、気がついたらナイフをポケットに入れていた。このままだと、和人の言うがまま、ナツを殺してしまう。でも、殺したくなんてない──殺したくないんだ。ナツを殺す前に、僕が死ねばいいのか? そしてまた生まれ変わって、来世で同じことを繰り返すのか? どうすればいいのか判らない。助けてくれ、ナツ」
「…………」
 両手で持ったナイフがぶるぶると震えているのを、私は声も出さずに見ていた。
 ……と。
 震えるその刃先が、ぐらりとぼやけて、一回り大きなものになった。
 小刀だ。
 ちょっと待て、とくらっとした。また、ダブっている。昼間の明るい日差しが急速に失われて、月の輝く闇夜に変換しようとしている。世界が変わる。よりにもよってこの場面で、奈津の記憶が戻ってこようとしている。あのね、今、私は非常に忙しいんだよ、奈津!
 大きく息を吸って、吐く。呼吸を整え、やってくる記憶の奔流に押し流されてしまわないように、両足を踏ん張った。
 引っ張られないように、引きずられないように。
 ──私が、私のままでいられるように。



         ***


 小刀を私の胸に突き立て、和人さんは大きな叫び声をあげた。
 ぐるぐると景色が廻る。私はその場にくずおれ、和人さんの絶叫が月光の下で響き渡った。不思議と、まったく痛みは感じなかった。ごぼっというイヤな音がして、生ぬるい液体が自分の口から飛び出したことは判ったが、それが赤い血であることを確認することも出来なかった。すぐに、視界が闇に覆われてしまったからだ。
 変ね、目は開いているはずなのにね。どうして、なんにも見えないのだろう。
 何も。なあんにも。桜も。月も。美しい星空も。
 寒い──暑い。力が入らない。身体から、いろんなものが流れ出して、抜け落ちていくのが判る。どんどん、自分が空っぽになっていく。和人さんの声が遠くなる。すべての感覚も一緒に遠ざかる。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない世界へと、引き寄せられていく。
 ……ああ、これが、「死」 というものか。
「奈津、奈津!」
 声が──
 声が、無の世界へといざなわれようとしていた私の心を、寸でのところで引き留めた。
 和人さん? ううん、違う。この声は──
「奈津、行くな、死んだら駄目だ、奈津!」
 あの人だ。
 来てしまったのか。来てくれたのか。最後にその顔を見たくても、今の私には無理だった。揺さぶられていても、抱きかかえられていても、私の身体はもう何も感じることが出来ない。口を動かすことも出来ない。あの人の名前を呼ぶことも、叶わない。
「奈津っ!!」
 悲痛な声が、闇の中で何度も私の名を呼んでいる。いつも 「お嬢さん」 とからかうような言い方しかしてくれなかったあの人が、呼んでくれた私の名前。最初で、最後の。
「頼むから、奈津。死ぬな。俺は──」
 涙で崩れた声が、次第に小さくなっていく。あの人が泣いている。こんなにも、悲しませてしまった。ごめんなさい、ごめんなさい。
「俺は、あんたが幸せになってくれれば、それでよかったのに」
 幸せに……?
 幸せに、なれるはずだったのだろうか。
 私も、和人さんも、この人も。
 本当は。
「奈津!」
 私が、悪かったのだ。

 ──星が見える、と途切れかける意識の中でぼんやりと思った。
 私がずっと大好きだった星。子供の頃から、夜になるといつも頭上を見上げて星を数えた。あの美しい光が、煌めく瞬きが、なによりも私の心を慰めてくれた。一人じゃないんだと、言ってもらえているようで。
 昼間でも、星が見たい、と呟いて、あの人に笑われた。
 あの人と、綺麗な星空と、それだけがあれば他には何も要らないと、胸いっぱいの幸福とともに、そう思っていた。……思っていた頃も、あった。

 目の前に広がる美しい夜空。
 降り注ぐ桜の花びらのように、空いっぱいに散りばめられた白い星々。
 手を伸ばしても、届かない。
 遠い遠い、満天の光。

 いいえ、違う。
 私の目は、もう何も映さない。星なんて、見えるはずがない。
 あの人の声も、和人さんの声も、何も聞こえない。
 目の前に広がる遠い光は、星ではない。
 死の直前に見える闇の中の白い斑点、ただそれだけのことだった。
 星のような白い点が、次第に大きくなっていく。真っ白な光が広がっていく。呑み込まれる。
 意識が途絶える。
 ──ああ、どうか。
 どうか



         ***


 記憶の波が通り過ぎると同時に、私は素早く体勢を立て直した。
 片足でぐっと地面を踏みしめる。すぐさま両手を出して、目の前にあるナイフの刃の部分を、思いきり勢いよく、ばちんっという音と共に挟み込むようにして握った。
「ナ」
 私の唐突な行動に、トモ兄が驚いたように目を見開いた。
 咄嗟にナイフを引こうとしたが、私はそれよりも強い力で手の中のそれを握り込んだ。引かれた分、刃先が私の右の手の平を滑り、鋭い痛みが走ったが、私はそんなことに頓着してやらなかった。
 きつく握った指の間から、一筋の血が滴って落下する。痛いというか、熱い。じんじんする。
「ナツ、何してる、そんなことをしたら駄目だ。早く手を離して、血が──」
 トモ兄が私の手を伝う血の筋に気づき、うろたえたように叱った。これ以上動かすと、私の手にもっと傷がつく、と考えたためか、柄部分を握ったまま、固まったように微動だにしないでいる。さっき、殺してしまう、とか言ってたくせに。
 結局、トモ兄は、私に甘い。
「早く離しなさい」
「やだ」
「ナツ!」
 うるさいよ、と、私は反抗期の子供のように据わった眼つきでトモ兄を睨みつけた。さらにぐっと力を入れて握ると、指の間から流れ出る血の量がまた増えた。
「お願いだ、ナツ、やめてくれ」
 トモ兄はすっかり動揺していたが、私は聞かなかった。
 痛いかと言われりゃ、そりゃ痛いに決まっている。私はもともと痛みに強い方ではない。どっちかというと、転んで膝をすりむいたくらいで、死にそうなくらい大げさに泣き喚くタイプである。
 刃物だって、ずっと苦手だった。カッターも彫刻刀も、扱う時はひどくこわごわと手に持っていた。知らない男の人に近寄られるだけで身体が動かなくなってしまうように、そこにはいつも、説明のつかない恐怖心ばかりがあった。
 でも、今の私はあまり気にしなかった。痛みよりも、怖さよりも、もっともっと強い感情が、胸の中に充満していて、それどころではなかった。早い話、私は激怒していたのだ。
 こんなにも腹を立てたことはない、というくらい、腸が煮えくり返っている。怒髪天を衝く、とはこのことか。あんまり怒りすぎて、他には何も考えることが出来ないくらいだった。自分の中に、こんなにも怒りのエネルギーがあるということを知って、ちょっと引いてしまうくらい、私はただひたすらに、怒り狂っていた。
 ……奈津の。

 奈津の、バカタレがあっ!!


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