遠くの星

42.輪廻



 後日、季久子にはやっぱりものすごく怒られた。
 人の話を最後まで聞けと怒られ、その単純な性格をなんとかしろと怒られ、あたしがどれだけ死にそうに心配したか判ってるのと怒られ、結局数針縫うことになった手の傷を見てまた怒られた。蒼君も怖かったけど、季久子も怖かった。私はひたすら平謝りである。
 傷については、「尖っているところに引っかけた」 という理由で押し通すことにした。トモ兄は何度も、微妙な表情で手当てをしてくれるお医者さんに向かって口を開きかけていたけど、そのたび向こう脛を蹴っ飛ばして黙らせた。地面に転がっていたナイフは、蒼君がさっさとどこかに処分したらしい。結果として面倒なことにならずに済んで、ほっとした。
 ちなみに両親は、私が適当に考えたその理由を、「いかにも粗忽なアンタがやりそうなことだ」 と、まったく疑うこともなく納得していた。そうか、こういう時、日頃の信頼がモノを言うのだな。あんまり嬉しくない。
 私の手の平には白い線が一本残ることになったが、生命線が一本増えて得したと思えば、そう大した問題でもない。利き手なので、学校も始まった日常生活は少々不便だったけど、それもシャーペンが持てないとかお弁当が食べにくいとか、その程度のことだし。一週間も過ぎた頃には、まだ少し引き攣れるような感じはあるものの、ものを持つことも出来るようになったので、私は意気揚々と、バイトを再開することにした。
 バイト仲間のみんなは、笑顔で私を迎えてくれた。ちょっぴり照れくさかったけど、嬉しかった。私の手の包帯を見て、既婚の三十代の女の人が、「あら、まだ原因不明の発疹が残ってるの?」 と心配していたが、店長と須田さんは、一体なにを言ったのやら。
 その須田さんは、休んだ分みっちり働きな、と、以前にも増して厳しい。店長は相変わらず、働きもせずに、店の中をフラフラしては、何かを観察して楽しそうにくすくす笑っている。
「僕ねえ、気づいたんだけど、不器用な男と鈍感な女の組み合わせが最悪、なんじゃなくて、口数の少ない男と、察しの悪い女の組み合わせが最悪、ってことなんだよね。いつになったら進展するのかと思うと、もー僕、おっかしくってさあー」
 などと、わけの判らないことを言っては、一人でウケるのも変わっていない。いいなあー、この懐かしい空気、としみじみしていたのは最初だけで、須田さんにコキ使われて目が廻るほど忙しく働いているうちに、腹が立ってきた。仕事してください、店長。
 蒼君は特に私のことなんか見向きもしないで、いつも通り、黙々と本を運んだり並べたりしている。着けている黒エプロンの前ポケットには、見覚えのあるボールペン。「高校生のくせに、いいやつ使ってるね、ちょっと貸して」 と須田さんに言われて、「ダメ」 と素っ気なく返していた。
 私が休んでいる間に、本屋の周囲を騒がせていた変質者は警察に捕まったそうなのだが、蒼君は、前と同じように、当たり前の顔をして、駅までの道を私と歩いてくれる。


「俺、明日、バイト休むから」
 私の手の包帯が完全に取れた頃、バイトからの帰り道、蒼君に言われた。
「あ、そうなんだ。また旅に出るの?」
「うん」
 当然のように、明日は平日である。そのことについては、すでにちっとも気にならなくなっている自分が怖い。
「やっぱり行き先は決まってないの?」
「決まってるのは方角くらいだな。まだ寒いし、なるべく南方面」
 それはあまり 「決まっている」 とは言わないんじゃないか、と私は思った。どれほどバイトに勤勉に励んでも、悲しいかな時給は低いので、旅の資金にも南方面の行き先にも、限りがあるだろうけど。
「いいなー、ぶらり一人旅。私もやってみようかなー」
 うっとりと憧れを乗せてそう言うと、「お前はやめとけ」 と蒼君から即座に返事が返ってきた。私は目を瞬く。
「なんで?」
「絶対迷子になるか、行き倒れるか、誰かに騙されて連れ去られる」
「蒼君てさ、私のこと、小学生以下だと思ってるよね? 私だって出来るよ、一人旅くらい」
「どうしてそんなに自信満々に言い切れるのか、そっちのほうが判らない。今までの自分を少しは振り返ってみろ」
「過去にばっかりこだわっても、前には進めないな、って、私は最近になって学習したんだよ、蒼君」
「なにを威張ってる。そういうのを、能天気っていうんだ」
 ずけっと言ってから、蒼君は少し口を噤んだ。
 自転車を押して、前方を向きながら、
「……そのうち」
 と、ぼそりと呟く。
「うん?」
 その先があるのだろうと思って私はしばらく待ったが、蒼君はむっつりした顔のまま、また黙ってしまった。「そのうち大人になるまで待て」、と言いたいのかもしれない。ええー、大人になるまで、一人旅はお預けか。
 そうそう、「大人」 で思い出した。
「あのね蒼君、昨日、トモ兄から電話があってね」
 と私が言うと、蒼君は珍しく、かなり露骨にイヤな顔になった。
「トモ兄、彼女が出来たんだって」
「彼女?」
「うん」
 爆弾宣言をして親戚中に恐慌を引き起こしたトモ兄は、「ちょっと精神的に疲れていて」 という理由をつけて、婚約の申し出を撤回し、全員に謝罪した。もちろんその一言ですべてが綺麗に片付いたわけではないし、トモ兄のお父さんとお母さんは、息子のことをまだ心配して、しょっちゅうアパートに来たりするらしい。祖父母にも、私の両親にも、しこりや、ぎこちなさは、あちこちに残ったままだ。
 でもそれは、時間が解決するのを待つしかないのだろう。私とトモ兄との間も、あっという間に昔のように戻れるわけではないけれど、今は少しずつ、関係の修復に向けて、お互いに努力しているところである。
 今度はちゃんと、仲の良いイトコ同士として、心から笑い合えるように。
「だから私、てっきり、クリスマスに見た綺麗な女の人のことだと思って、今度紹介してね、って言ったんだよ。そうしたら、いいよ、って気軽に応じてくれたんだけど」
「だけど?」
「そのあとで、『どの彼女を紹介しようか?』 だって」
「…………」
 電話のこっち側で私が絶句していると、トモ兄は、冗談だよ、と笑っていたが。……ホントに冗談なんだろうな、あれ。やけに爽やかな笑い方が、めちゃくちゃ胡散臭かった。
「トモ兄、最近、少し開き直ったみたいでさ、腹黒いところをあんまり隠そうとしなくなったんだよねー」
 でも、そういうトモ兄は、前に比べて、ちょっと楽になったように見える。「僕は本当は、すごく性格が悪いんだ」 なんてことを、あの綺麗な微笑みとともに堂々と言い切れるようになった分、少しだけ空気を抜いて、息をつき、ようやく、知哉としての自分の人生をしっかり歩きはじめたように思える。
 それは、とても良いことのように、思う。
 私がそう続けると、蒼君は、「ふうん」 と興味なさげな声を出した。
「あ、でも、はっきりと変わったこともある」
「変わったこと?」
「私のこと、『夏凛』 って、呼ぶようになった」
「……ふうん」
 今度の 「ふうん」 は、さっきのほど興味なさそうではなかった。ていうか、気のせいかな、蒼君、どんどん不機嫌になっていくような。
「蒼君は、いつも 『ふうん』 って、聞くんだね。私の話を聞いた時も、そう言ってたよ。バカみたい、とか、信じられない、とかは、思わなかった?」
 私とトモ兄との間にあったことは、全部、蒼君に話した。
 前世のことも、奈津のことも、和人さんのことも。私が知っている限りのことを話したし、それに対して私が思ったこと、考えたこと、ジタバタと足掻いたことも、すべて隠さず打ち明けた。
 ものすごく長くなったその話を聞き終わった時、蒼君はただ一言、「ふうん」 と言っただけだった。蒼君が私を見る目も態度も、何ひとつ話す前と変わらなかった。信じられないと突き放すでもなく、嘘つけと否定するのでもなく、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすでもなく。
 その瞳は、最初に会った時と同じように、静かに透き通っていた。
「……別に。お前がそう言うのなら、そうなんだろ」
 と、蒼君はボソリと言った。
「でも、前世なんて信じない、くだらない、って言ってたよね、以前」
「…………」
 私が蒸し返すと、蒼君はちらっとこちらを一瞥してから、ひとつ溜め息を落とした。
「──俺は、生まれた時から、否応なく死生観を植えつけられるような環境にいたんだぞ」
「あ、そうか。おうち、お寺だもんね」
「輪廻なんてのは、迷いと執着のある限り、永遠に続くものだと、何度も教え込まれてきたんだ」
「へえー」
「悟りを開きでもしなきゃ、輪廻転生の輪からは抜け出せない。前世の業を背負って、今生も来世もずっと、苦しみながら生きていかなきゃならない、って」
「厳しいね」
「こんなもんをこの先も未来永劫背負い続けていかなきゃならないのかと思えば、ウンザリしてそう言いたくもなるだろ」
「ん?」
 あれ、なんか今、話が飛躍しなかった?
 きょとんとして首を傾げていると、それに気づいた蒼君が、ぱたりと口を結んで、まじまじと私を見つめてきた。え、なに? そんなことされると、照れるんだけど。私、今、肌荒れしてなかったかな、大丈夫かな、と気もそぞろになる。
「……ていうか、お前」
「うん?」
「もしかして、本当にまだ気づいてないのか」
「え、何を?」
「………………」
 蒼君はけっこう長いこと無言を続けたあとで、はあーっと深い息を吐き出した。
「……別にいいけど」
 なんか、妙に、グッタリしてない? 蒼君。
「まあ、記憶なんて所詮、ただの 『情報』 だからな。前世の記憶が一部分残ってるからって、その人間のすべてが判るわけでもないし、理解できるわけでもない。命は廻っても、人生はひとつだ。どんなに泣き叫ぼうが後悔しようが、やり直すことも、戻ることも出来ない。だから今のこの生を大事にしろ、ってことだと……思う」
「……うん」
 記憶は情報、か。
「そうだね。私、結局、奈津の好きな人って、顔も名前も、どんな人だったかも、全然まったくなーんにも思い出さないままなんだけど……って、いった!」
 いきなり、蒼君に耳たぶを引っ張られた。
「な、なに?! なんで?!」
「……なんか今、一瞬、猛烈にムカついた」
「ええー、なにその暴君発言!」
 私は抗議したが、蒼君は仏頂面で口をへの字にして知らんぷりだ。少々オレ様気質あり、と、脳内の蒼君ノートに書き加えておこう。
「──けど、それはね、『あの人』 のことは、奈津だけの大事な思い出だから、っていうことなんじゃないかと思うんだ。あの人のことは、奈津一人が覚えていればいいことであって、私は知らなくてもいいことなんだよ、きっと」
 私は暗い夜空を見上げた。
 奈津、奈津、と、暗闇の中で何度も名を呼んでいた悲痛な声が、頭の中で響く。
 あの人も、もしかしたら、悲しい記憶を持ったまま、この現世に生まれ変わっているのだろうか。
「名前も、顔も判らない。私には知りようがない。奈津の言葉を伝えることも出来ない。でもね」
 どうか、泣かないで。悲しまないで。苦しまないで。
「……それだけは、奈津と同じように、願ってる」
「…………」
 蒼君は、少し黙ってから、うん、と小さく呟いた。



          ***


 翌日の出発は朝早い時間だというので、じゃあ学校に行く前に駅まで見送りに行くよ! と元気よく約束したのはいいが、そういう時に限って寝坊するのが私だ。
 なんとか遅刻はせずに済んだが、慌てて入場券を買ってホームに駆け込んだのは、蒼君の乗る予定の電車の発車時刻ギリギリの時間だった。
「よ、よよ、よかった……間に合った……」
 ベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた蒼君は、制服姿で鞄を抱え、ぜえぜえと息も絶え絶えの私を見て、やれやれという顔で短い息を吐いた。
「なにもそう必死になって走って来なくてもいいだろ。別に、次の電車に乗ればいいことだし」
「そういうわけにはいかないよ」
「なんでそう変なところで律儀なんだ。そんな汗だくになって、全力疾走してくるようなことじゃない」
「えっ、そう? ごめん、じゃあちょっと待って、やり直すから」
「……なにを」
「たったったっと足音軽く駆け寄って、『ごめんね待った?』 ってにっこり笑うんだよ。こういう時、間違っても汗だくになって全力疾走したらダメなんだって」
「…………。誰に聞いた」
「キクちゃん」
「……お前、人の言うことをなんでもかんでも鵜呑みにするなと、あれほど……」
 いいから座れ、と蒼君は自分が立ち上がり、代わりに私をベンチに座らせた。ついでに、持っていた缶コーヒーを、ほら、と手渡される。まだ飲み始めたばかりだったのか、缶はけっこうな重みがあった。
「…………」
 そ、そっか。これ、飲んでもいいのか。
 と、私はそわそわしたが、蒼君はいつもと同じ平然とした顔と態度のままだった。私が純情すぎるのか、蒼君が鈍感なのか、どっちなのだろう。それとも、みんなはこういうこと、友達同士でも普通にするものなのかな。でも蒼君が、私以外の女友達にこういうことをしたら、それはけっこうイヤだな。

 ……ところで、私はいつ、蒼君に告白したらいいのだろう。

 なんていうか、ちっともタイミングが掴めないんだけど。蒼君て、いつでも淡々としてるし。毎日バイト先で会って、帰りも一緒なのに、今さら改まって 「放課後、体育館の裏に来てください」 なんて言うのも、変じゃないか? 大体、こういう時ってまず、何を言えばいいの? 好きです、の前に、何か言ったりして場を作るものなの?
 季久子にその旨相談したら、しばらく黙ったあとで、
「とりあえず、『お友達からお願いします』 っていうのだけはやめときなさい」
 というアドバイスをされた。なんで? と聞いたら、鷺宮が気の毒すぎるから、と言う。意味が判らない。
「……お前、また何か、変なこと考えてるだろう」
 いつの間にか、私は缶コーヒーを睨みつけて、ううーむと考え込んでいたらしい。かけられた声で我に返って顔を上げると、蒼君は苦虫を大量に噛み潰したような顔をしていた。
「そんなことないよ。現在の重要案件について悩んでるんだよ」
「やめとけ。絶対、ろくでもない結論に辿り着く予感がする」
 蒼君にすっぱりと断言されて、言い返そうとしたら、発車を知らせるベルと、駅員さんのアナウンスが響いた。蒼君が電車のほうを振り返り、私はコーヒーを手に持ったまま立ち上がる。何はともあれ、見送りに間に合ってよかった。
「じゃあ、行ってらっしゃい、蒼君。気をつけてね」
 蒼君の荷物は、右肩からぶら下げた小さめのディバッグ一つだけだった。こんな少しでいいのか、旅人の風格が滲み出ている。すごいなあと感心しながら、私は電車に乗り込む蒼君に声をかけた。
 蒼君は、車内に乗ってから、くるりとこちらを振り向いた。
「橘」
「うん」
「……はじめて、電話した時な」
「うん?」
 あの、唐突な 「星が見えるか」 の電話か。
「すごく、星が綺麗だったからさ」
「うん」
「橘にも、見せてやりたいと思ったんだ」
「…………」
「せめて、言葉だけでも伝わるものがあればいいかと思って」
「あ、うん。伝わったよ、ちゃんと」
 私は一生懸命こくこくと何回も頷いて言った。あの時の、灰色の空に重なった、澄んだ夜空と眩い星々を思い出す。蒼君の言葉は少ししかなくても、伝わったものは確かにあった。
「手を伸ばせば届きそうな綺麗な星が、目の前に見えるみたいだったよ。嬉しかった」
 蒼君は、そっか、と目を細めて笑った。
「また、夜、電話する」
「うん、待ってる」
「……そのうち」
「うん?」
「そのうち、一緒に見に行こう」
 え、と聞き返す前に、電車のドアが閉じられた。
 私の顔がトマトみたいに赤くなったのが可笑しかったのか、透明な窓の向こうで、蒼君が思いきり噴き出していた。



 電車の姿がすっかり見えなくなってから、私はホームに立ったまま、まだ赤い顔を上に向けた。
 そこには青い空が広がっている。今日もいい天気になりそうだ。夜にはきっと、いくつもの星が輝くことだろう。
 空を見ながら、心の中で呼びかけた。
 ……ねえ、奈津。
 私は、奈津の記憶を、想いを、少しでも空に解き放ってあげられたかな。
 少しでいいの。全部でなくてもいい。トモ兄だって、完全に吹っ切れたわけではないのだろう。何が救われて、何が救われないままなのかも、よく判らない。また、夢を見ることがあるかもしれない。これからも、たくさん、苦しんで、呑み込んで、乗り越えていかなければならないことがあるのかもしれない。
 でもさ。
 でも、そうやって、少しずつ、少しずつ、何かを自由にできたらいいね。
 奈津の弱さを、和人さんの寂しさを、あの人の涙を、お清ちゃんの痛みを、ちょっとずつ、小さな白い光にして、軽くして、明るくして、空に向けて飛ばしていければいいね。
 そうして、高く昇ったその光が、いつか夜空で輝く星になって、この場所を照らしてくれるようになるといい。
 ……ずっとずっと遠くから、この地上に生きる私たちを、また廻って新たに生まれる命を、優しく温かく見守っていてくれるといい。


 どうか、どうか。
 泣かないように。悲しまないように。苦しまないように。
 ──幸せに、なりますように。



遠くの星・完

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