遠くの星

8.遠景



 期末試験が三日後に迫ってきていた。
 私は教室の自分の席に座り、開けられた窓から廊下をぼんやり眺めて、はあーと息をつく。
 前世の記憶に縛られていようが、現世の恋に足踏みをしていようが、日常はそんなことにまったく頓着しないで、淡々と進んでいくのだなあ、と思わずにいられない。奈津が誰と約束しようが、夏凛が誰を好きになろうが、試験は試験として、容赦なく予定通りにやって来るのだ。
 ロマンティシズムとはまるで無縁の現実に、私も迷いや悩みをとりあえず棚に上げて、せっせと勉強に精を出すしかない。ぶくぶく思慮の沼に沈んでいても、強制的に陸地に上げられて、勉強しろ、と突き上げてくるのだから。誰がって、教師とか母親とか内申とかが。
 いつまでも苦悩しているだけでよかった大昔の哲学者なんかより、現代の高校生のほうがよっぽど不自由である気がする。いいんだか悪いんだか。
「どしたの、夏凛。疲れた顔して」
 そばにいた友人が私の顔を覗き込んで訊ねてきた。
「バイト、そんなに大変?」
「ううん、大変は大変だけど、疲れてるのはそれじゃないよ。むしろ、今日からお休みしないといけないのが悲しい」
 試験三日前から試験期間がすべて終了するまで、私はバイトには行けないのである。それが本屋のアルバイトを始めるにあたって、母親から厳しく命じられた条件のひとつだったからだ。
「どっちかというと、勉強疲れ」
「へえー、あんたにしちゃ、真面目だね」
 友人が驚いたように言った。私は自分ではわりと真面目な性格だと思っているので、イマイチその言われようは釈然としない。まあ、いつもよりは熱心に試験勉強に取り組んでいるのは確かだけど。
 もともと母は、もうすぐ受験生になるというのに、私がいきなりバイトを始めたことに対してかなり不満を持っていた。なので、成績が下がろうものなら、バイトなんてすぐに辞めなさいと言われるのは目に見えている。
 別にバイトをしていなくたって、私の成績がさほど良かったためしはないのだが。いや、だからこそ、なのかな。これ以上バカ娘の成績が下がったら、もう恥ずかしくて親類の集まりには顔を出せない、とでも考えているのかもしれない。頭の良すぎる従兄を持つと、親子ともども不幸である。
 ともあれ私だって、出来れば母親との余計な衝突は避けたい。これからもバイトを辞める気はさらさらないのだから、出かけようとするたびに嫌味を言われるのは真っ平だ。そんなわけで、現在の私は私なりに、成績を上げるか、少なくとも現状維持なら文句はないんでしょ、という、やや後ろ向きな野望を抱いて勉強しているのだった。
 もちろん、店長にはその旨説明して、欠勤の了承も得ている。「辞められちゃ困るから、いい点数取ってよね」 と、かなり利己的な応援の仕方をされた。須田さんには、「高校の方を辞めて、バイトで食っていけばいいじゃん」 と人生における新たな可能性を提示された。世の中は広くて、いろいろな考えの人がいるんだなあ、と感動せずにはいられない。学校という狭い枠組みの中では知り得ない社会勉強をさせられている気分である。出来ればフツウに、「頑張ってね」 という一言が欲しかったところだが。
「あ」
 その時、漫然と眺めていた廊下を、蒼君が一人で歩いているのを見つけて、私はちいさな声を上げた。
 そういえば、今日からバイトを休むこと、蒼君には言ってなかったな──と思いつく。
 別に、蒼君は私がバイトに行こうが休もうが、ちっとも気にしないに決まっているのだけど。でもやっぱり、言っておいた方がいいかな、と蒼君の姿を見てそわそわしてしまうのは止められなかった。だってバイト先では私の先輩にあたるんだし、ねえ。
 つまり結局は、口実だ。
 学校ではあんまり話す機会がないから (あっても素っ気ない態度しかとってもらえない)、蒼君に話しかけるきっかけが出来ただけで、心が浮き立ってきてしまうのだ。私にとって、話の内容はあんまり問題じゃない。
「ちょっと、ごめん」
 と友人に断りを入れて、私は蒼君を追いかけて廊下を小走りに駆けて行った。


 蒼君は、私の言葉を聞いて、軽く眉を寄せた。
 試験くらいで休むのか、みたいなことを言われるのかと思って私は身構えたが、口を開いて出てきたのは、そんな予想とは全然違っていた。というか、遥かにぶっ飛んでいた。私は未だに、蒼君という人を判っていない。
「試験……が、あるのか?」
「ええーー!」
 怪訝そうに問われて、驚愕の叫びをあげてしまう。私と同じ学校、私と同じ学年でありながら、蒼君は今まで一体、どこの異世界を漂っていたのだろう。試験三日前ですよ! 周囲のことに関心がないったって、おのずと限度があるではないか!
「そういえば、教室でそんなような張り紙を見た気がする」
「そんなようなって、それは試験の範囲を書いたやつでしょ! 気のせいじゃないから、ちゃんと書き写しておいた方がいいよ!」
 私はわたわたと慌てて言ったが、蒼君はちょっと口を曲げて、あからさまに 「面倒くさい……」 という顔をした。この期に及んでまるで動じるところのないその態度は立派なものだが、いやいや、ここはやっぱりちょっとは動じるべきだよ、蒼君。
「だ、大丈夫なの、そんなんで?」
 私のほうが蒼君の百倍くらい狼狽している。余計なお節介かなとは思っても、心配せずにはいられない。蒼君はもしかして、勉強ギライ、というわけなのではなく、勉強にまったく興味を持っていないのではなかろうか。いや私だって決して興味があるわけではないんだけど、ここまで悟りを開いた人みたいには到底なれない。
「まあ、大丈夫だろ、多分」
 多分て!
 私はますます不安になったが、ある可能性を思いつき、光明が差した気がした。
「実は蒼君て、勉強しなくても、ある程度は出来る人?」
 たまにいるではないか、授業だけで完璧に内容を理解し把握して、試験勉強なんて特にしなくても点数が取れる、という人が。蒼君はひょっとしてそういう天才タイプ? と一瞬期待しかけたのだが、すぐに本人に否定された。
「勉強しなくても出来るって、どんな変人だよ」
「…………」
 いや、でも、蒼君もあまり常識人であるとは……もごもご。
「大体、俺、授業中は寝てることが多いし」
 それは決して自慢できるようなことでもないのですが。
「じゃあ、ノートとか、あんまり取ってもいないんじゃない?」
 眉を下げた私の質問に、蒼君はあっさりと、「取ったことないな」 と言い切った。私のほうが倒れそうになる。
「そこは断言するようなところじゃないよ、蒼君……。ノートなくて、これまでの試験はどうしてたの?」
「適当に」
 蒼君の口調には、心の底から、「適当」 という感じが滲み出ていた。ああそうか、本当にもう、蒼君にとって、それはどうでもいい事柄でしかないんだね、と納得させられるような顔と声だった。
「あの……よかったら」
 おずおず口を開く。なんだか踏み込みすぎかなあ、という気がしてならないのだが、かといって、このまま放ってもおけない。余計なお世話だ、と返されるのを覚悟して、私は続けた。
「私のノート、コピーしようか? そんなに綺麗にまとめてあるわけでもないけど」
 それでも、全然ないよりは多少はマシなんじゃないだろうか。教師によっては、教科書よりも、授業中に言ったところを重点的に試験に出すタイプもいるし。
 私は全然まったく優等生ではないが、ノートだけはいつも几帳面に取っている。秀才のトモ兄に、ノートのとり方のポイントを教えてもらっているから、まあまあ見やすくもなっているはずだ。そんなに頭のよくない私が、なんとかいつも試験で中の上くらいの成績を取れるのも、半分以上はそのおかげだというのもある。
「…………」
 蒼君は口を閉じて私を見返した。甘い感情とはまるで別の意味でドキドキする。
 必要ない、と言われればすぐに退くつもりでいたのだけど、蒼君は少しだけ私から目を逸らし、ぼそりと言った。
「助かる」
「ええっ!」
 驚いて、つい声が出てしまった。蒼君の視線がまたこっちに戻ってきたが、いつもよりも無愛想さが十パーセントくらい割増された顔をしていた。
「……自分で言いだしておいて、なんでそんなにびっくりしてるんだ」
「いやまさか、蒼君からそんな普通の言葉をかけてもらえるとは想像してもいなくて」
「お前、俺をどういう人間だと思ってんの」
 蒼君はますますムスッとしたが、そこにはちょっぴり照れが混じっているような気がして、うるさいくらいに鼓動が跳ねまわる。どうしよう、なんだかものすごく可愛いんですけど。

 ……どうしよう、私やっぱり、蒼君のことが好きみたい。

「あの、あの、じゃあ、ダッシュしてすぐにコピーしてくるから! ぱっと行ってぱっと戻ってくるから! ちょっとだけ待っててくれる?」
 言い終わらないうちに蒼君にくるっと背中を向けて、世界新記録を出すような意気込みで走り出そうとした私の制服の端を、蒼君がため息とともに掴んで止めた。
「なんでそんな急ぐ必要があるんだ」
「試験の三日前なんだから、蒼君はもうちょっと急いだ方がいいと思う」
「お前はもうちょっと落ち着け。休み時間、あと少しで終わるだろ」
「あ、そうか……」
 蒼君みたいにあらゆる場面で落ち着いているのもいかがなものかと思うのだが、言われた言葉には頷くしかなかった。あと一分や二分では、いくら私がマッハのスピードを出したとしても、ノートをコピーして戻ってくるのは不可能だ。
「別に、いつでもいいから」
「いつでもって、くどいようだけどあと三日しかないよ、蒼君」
「どうせ、コピーを貰っても前日の夜にしか見ないし」
「それはあんまり、『試験勉強』 と呼べるようなものではないような気がする」
「文系は多分大丈夫だから、理数系だけでいい」
「え、そうなの?」
 きょとんとして問い返すと、「現国や古典や歴史なんて、勉強しなくても大体判るだろ」 と少しばかりムカつく答えが平然と返ってきた。それは本好きの強みということなのだろうか。
「赤点取らなきゃ問題ない。追試とかで時間を取られるのが嫌なんだ」
 ああ、そういう基準なのね……
「えと、じゃあ、今日学校に持ってきてないノートもあるから、家に帰ってコピーして、明日まとめて渡すよ」
「うん」
 頷く蒼君に、えへ、と緩みきった笑いを浮かべ、今日は全速力でうちに帰ろう、と私は張り切って考えた。たった今、なんでそんな急ぐ必要が、と言われたことは、綺麗さっぱり頭の中から消え去っている。確かに、私はちょっと落ち着いた方がいいのかもしれない。
 その時、ちょうどチャイムが鳴った。
 時間内に用事が済んでよかった、と私はほっとした。蒼君は無愛想なわりに同性によく構われるみたいで、普段は複数の男の子の友達と一緒にいることが多い。話をしたいなと思っても、さすがにその中に割り込んでいく度胸はないので、今みたいに一人でいる時は貴重な機会なのだ。今日はバイトを休むのだから、なおさらもう話をする時間はないだろう。
「それじゃ、呼び止めてごめん。また明日ね」
「明日って──」
 訝しそうに言いかけ、蒼君はそこで気がついたように口を噤んだ。
「……ああ、そうか。今日からバイトに来ないんだっけ」
「そもそも、それを蒼君に伝えに来たんだよー」
「…………」
 私は笑って言ったが、蒼君はなんとなく不機嫌そうな顔をして口を結んだ。いや、不機嫌そうなのはいつもなのだが、いつもよりもさらに。
 あれ、と私は笑いを引っ込める。今までのふわふわとした気分に、さあっと水をかけられたようだった。
 ……やっぱり、試験だからってバイトを休むのは、毎日せっせと働く蒼君にとっては面白くないことなのだろうか。
「じゃあな」
 蒼君はそう言うと、私に背を向けさっさと自分のクラスへと戻っていった。
 姿勢良く伸びた背中は、まるで遠い景色のように、よそよそしかった。


          ***


 私は半分しょんぼりと肩を落とし、しかしもう半分は課せられた使命に情熱を燃やしつつ、授業が終わるや否や家へと飛んで帰った。ノートのコピーをとるのを 「使命」 なんて言ってしまってよいものか、自分の小ささを思い知らされるような気にもなるが、それはさておき。
 とにかくコピーを渡して、成績を下げないように勉強して、試験が終わったら一生懸命働こう、と決心する。今の自分にやれることをやるだけだ。すべての行動の目的が、蒼君一人に絞られているのが少々恥ずかしいのだけれど。
「ただいまー」
 すごい勢いで自宅のドアを開けて、声を出しながら、私はほとんど上の空だった。うちのプリンターって、コピーもできるんだっけ? と考えていたからだ。パソコンくらいは私も使うけど、プリンターは年賀状を印刷したりする時くらいしか使わない。いろいろとカタログを集めて買ったのは父親なので、どういう機能があるのか、私は今ひとつよく知らなかった。
「おかえりー」
「ねえねえお母さん、うちのプリンターって、コピーできたっけ?」
 リビングから顔を出した母親に、靴を脱ぎながら早速訊ねてみた私は、三和土に目線を下げることもしなかった。
「さあー、お母さん、そういうことはサッパリだもん」
 ううむ、さすがに親子。アテにならないこと甚だしい。
「ま、いいや、見たらわか」
「ちょうどいいじゃない、そういうことは知哉君に聞きなさいよ」
 見たらわかることだし、と言おうとした言葉は、母の軽い声によって喉の奥へと押し戻された。玄関に上がりかけた姿勢でピタリと動きを止める。
「……え、ちょうどいいって」
 そろりと視線を下に向けると、私がいい加減に脱いだ靴の横には、男物の大きな靴が、行儀よく揃えて置かれている。
 きゅっと心臓が縮まった。
「おかえり、ナツ」
 母親の後ろからゆっくりと姿を見せたのは、その靴の持ち主であるトモ兄だ。今は、「従兄」 としての優しい笑顔だった。
「あ……うん、ただいま」
 うろたえながら返事をした。笑おうとしたのに、どうしても強張ってしまう。
「コピーがどうかしたかい?」
「え、ううん、そんな、大したことじゃないの」
 慌てて手を振る。トモ兄の顔も声もいつもと変わらない。変わらないはずなのに、そこに鋭さが混じっているように聞こえてしまうのは、きっと、私が彼に対して隠し事をしているせいだ。トモ兄は昔から、私がつく嘘に敏感だった。母のイヤリングを片方失くしたのも、木に登って枝を折ったのも、私の仕業だと最初に見破ったのはトモ兄だ。
「トモ兄、どうしたの、ご飯食べに来たの?」
 家族で食事を一緒にすることには、私に何の異論もあるはずがない。父と母の前では、私たちはあくまで仲の良い兄と妹の関係のままでいられる。私は安心して、トモ兄と接していられる。
 ──だから、大丈夫。
「それもあるけど」
 と、トモ兄が笑った。
 本人がその続きを言う前に、母が口を挟んだ。
「もうすぐ試験だし、夏凛の勉強を見てやってくれない? ってお母さんが頼んだのよー。なにしろ塾の先生だもん、知哉君に教わるのがいちばん間違いないでしょ」
 にこにことしてトモ兄を見る母の目の中には、無邪気な信頼が溢れている。
 本日二度目、私はその場に倒れそうになった。



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