月の花

ACT10.ところにより大嵐(前編)




 拓海君おはよう、という声が自分のすぐ後ろで聞こえて、ん? と思った里紗が振り向くと、同じ一年生で、名前は知らないけれど見たことのある女生徒が、にこにこしながら顔を右横に向けていた。
 その子の視線を辿ると、隣のクラスの有名人が、彼女と仲良く並んで歩いているのが目に入った。この二人が幼馴染で、住んでいる家もすぐ近く、ということはもう周知の事実であるから、きっと家から一緒に登校してきたのだろう。朝っぱらからそんなにくっついていなくてもよさそうなものだけど、と、里紗は呆れ半分、感心半分、といったところだ。
「あ、おはよー」
 拓海は声を掛けてきた女の子に、可愛らしい笑顔で手っ取り早い挨拶を返すと、すぐにくるりと隣の彼女のほうへ顔を戻して、途切れたお喋りを嬉々として再開した。
「………………」
 なんというか、表面上の愛想はいいのだけれど、ものすごく社交辞令的な、「彼女以外はどうでもいい」 というのがありありな態度に見えてしまうのは、気のせいだろうか。
 並んで歩いている彼女のほうは、表情は変わらなかったが、ちらりとその女生徒を気にする素振りを見せた。それでも拓海が母親の気を惹こうとする子供のように 「こっちを見て」 アピールをするものだから、再びそちらへと目を戻す。それから彼に対して何かを言いかけようとして、ちょっと躊躇い、結局口を噤んだ。
「…………?」
 それを見て、里紗は首を傾げる。
 隣のクラスの拓海のことは、もちろん知っている。別に里紗でなくても一年の大部分は知っているだろう。なにしろ入学した時から、彼は一年生女子の中でアイドル扱いだったのだ。容姿も際立っているし、男女問わず好かれる人懐っこい性格は、そうされることにまったく違和感がなかった。里紗自身だって、わざわざ友人達と隣の組まで見学に行き、きゃあきゃあ騒いだこともあるくらいだ。
 一方、その拓海の一学年上の彼女については、あまりいい話を聞いたことがない。幼馴染という特権を利用して拓海にくっついているだとか、いつも無口で無愛想で感じが悪いだとか、そんなことばっかりだ。そして里紗は、今まで遠目でしかこの二人を見たことがなかったので、へえ、そうなの、くらいの感想しか持っていなかったのだけれど。
 でも、こうして間近で見ると、なんとなく。
 ──なんとなく、自分が想像していたのと、違うような。
「……何、あれ」
 新たに聞こえてきた別の声は、今度は左斜め前方からだった。朝のこの時刻、校門すぐ手前という場所は、登校する生徒達でごった返しているものだから、聞き耳を立てずとも近くを歩く人の話し声はよく聞こえてしまう。
 ひそひそとすぐ傍の友人と顔を近づけて眉を寄せているのは、これまた見知った顔だった。あまり親しくはないのだが、里紗と同じクラスの女子だ。
「ね、自分だけ特別扱いされるのが当然、みたいなヘーゼンとした顔しちゃって」
「ほんと、やなカンジ」
 どうやら、その陰口の対象は、拓海ではなくその彼女のほうであるらしい。ここでもまた、里紗は首を傾げざるを得ない。今の状況で問題があったとすれば、それは明らかに拓海の態度のほうだと、里紗には思えたからだ。
 クラスメート達は、声を抑えて話し続けている。二人の女の子たちの、拓海の隣を歩く彼女に向ける眼差しは、子供っぽいけれど陰湿な敵意が剥き出しだった。里紗は元々からっとした性格の持ち主なので、正直、こういうのがあまり好きではない。
 結局、単純にカッコいい彼氏を持っていることが 「面白くない」 っていうことよね、という結論を出し、軽く肩を竦めた里紗は、足を速めて彼女達を追い抜くと、そのまま校舎へと向かった。別にあたしには関係ないからいいけどね、と内心で続けつつ。
 そのなんでもない風景は、ただ単に通りすがりに遭遇しただけの、里紗にとって本当に無関係なものであったのだ。
 この朝の時点では。


 「それ」 が起きたのは、その日の昼休みである。
 図書室へ本を返しに行った帰り、里紗はまた、朝に見たクラスメートの少女達を見かけた。いや、同じクラスなのだから、教室内でも顔は合わせているのだけれど、ここは自分たちの教室からは結構離れているので、少し意外だったという意味で。
 朝は二人組だった彼女達は、今は三人に増えていた。階段の踊り場の隅に集まって、里紗からは背中しか見えないのだが、顔を寄せ合い、何事かをこそこそと話している。人数が変わっただけで、同じことしてるよ、とちょっとだけ滑稽な気分になりながら、何気なしに三人が見ている方向へ自分も顔を巡らせてみると。
 ──そこにはやっぱり朝と同様に、拓海の彼女がいた。
 何かの資料のようなものを両手に抱えながら、一人で階段を下りている。このあたりは準備室ばかりがある一画だから、授業で使うものを取りに来たのかもしれない。
 ざわ、と嫌な気分が湧いたのは、きっと、女の子にしか判らない、特有の予感みたいなものだ。生まれた時から女として生きてきて、その独特の世界に馴染んだ経験から感じ取れる、不穏な空気とでも呼ぶべきもの。
 三人は、顔を見合わせて、少し笑ったあと、拓海の彼女の後ろをついていくように、ゆっくりと階段を下り始めた。
 一般教室からは離れたこの場所は、他に人影もない。三人は、里紗の存在に気づいていない。どうしよう、と迷ったのは一瞬で、里紗は足を一歩踏み出した。何気ない通行人を装って、彼女達の視界に入ればいいのだ。そうすれば、下手なことは出来ない筈。
 ……でも、それは少し、遅かった。
 突然駆け足になって階段を下りていった三人は、偶然の振りをして、拓海の彼女に後ろから思い切りぶつかった。三人のうちの一人が、彼女の背を手で押すのを、里紗ははっきりと見た。
 あっと思う間もない。
 彼女が階段から落ちるのを、里紗はただ、息を呑んで見ていることしか出来なかった。


          ***


「おい、拓海。あれ、鏡花さんじゃないか」
 陽介の声で、拓海が目を向けると、ちょうど鏡花が保健室から出てくるところだった。昼休みも終わり近く、友人達と一緒に学校の外へこっそり抜け出して弁当後の間食をし、自分の教室へ戻ろうとしていた時のことだ。
「キョーカちゃん?!」
 驚いて駆け寄ると、鏡花は、あ、という形で口を開けた。
「どうしたのさ、その足」
 真っ先に目に付いたのは、彼女の足首に巻かれた、痛々しい真っ白な包帯である。
 膝を曲げて屈みこみ、まじまじと検分する拓海の背後で、「お、お前、危ない奴みたいだぞ……」 という、宙人のおののくような声が聞こえたが、そんな些事に関わっている場合ではないのできっぱり無視した。
「ちょっと、階段で足を踏み外しちゃって」
 という鏡花の返事は、いつものように淡々としたものだ。拓海は顔を顰めた。
「危ないなあー。和葉さんはどうしたのさ、キョーカちゃんのボディーガードは」
「和葉は今日、お休み。大体、ボディーガードじゃないし」
「俺が目を離したのが悪かったかな。放課も昼休みもずーっと一緒にいればよかったね」
「それはそれで、ちょっと困ります」
「で、怪我の具合はどうなの?」
「足首を捻ったくらいで、大したことないよ。階段から落ちた時に、通りがかりの女の子が助けてくれて、保健室まで付き添ってくれたり、保健の先生を呼びに行ってくれたりしたの。一年生の子だと思うけど……すぐに何処かへ行っちゃって、お礼を言うことが出来なかった」
 鏡花は、自分の怪我の状態よりも、そちらの方をよっぽど気にしているようだった。拓海にとっては、それは別段重要なことだとも思えないので、ふうんと返事をするだけに留める。
「そんな足じゃ、今日は自転車で帰るしかないね」
 電車だと、駅まで歩くのと家まで行くのが大変そうである。自分がおんぶしたり抱っこしたりして連れて行くのはちっとも構わないのだが、おそらく鏡花は首を縦に振らないだろう。
「え……自転車」
 この間拓海が (無理矢理) 自転車の後ろに乗せたことが功を奏したのか、鏡花のそれへの恐怖心は大分薄れたようだ。しかし、やはりまだ苦手意識は残っているらしく、彼女の声は幾分硬い。
「……でも、拓海、大変でしょう?」
「ぜーんぜん。俺、自転車好きだしさ」
 本音を言えば、鏡花の細い腕が自分の腰にぎゅっと抱きつくあの瞬間とか、背中に当たるふくよかな胸の感触とかが気持ちよくて大好きなわけなのだが、それは言う必要のないことなので、口には出さないでおく。
「どうでもいいが、お前、俺の自転車を使うという前提で話を進めてないか?」
「あれ、チュー太君たち、まだいたの?」
 後ろから掛かった苦々しい声に、わざとらしく驚いて言うと、友人は更に苦々しい顔をした。拓海は気にしなかったが、鏡花はそれを見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの自転車、チュ……宙人君のだったんだね、ごめんね」
「いやいや、気にしないで、キョーカちゃん」
「だから、なんでお前が返事をする?! ……あの、でも、鏡花さん、別に構いませんから、自転車使ってください、どうぞ」
 宙人は鏡花に向かうと、急にへどもどした口調になった。なんでこんな敬語を使っているのかも謎だ。この男は、もうちょっと女の子慣れしないと、あと十年くらいは彼女が出来ないんじゃないかなあ、と拓海は余計な心配をする。
「ごめんね。ありがとう」
 正面切って鏡花に礼を言われ、宙人は顔を赤くした。わあ、なんかムカつく。
「じゃあ、もう行くね」
 鏡花はそう言って軽く手を上げると、捻った片足を少し引き摺るようにして教室へ帰ろうとした。可哀想で見ていられない。
「キョーカちゃん、教室まで送ってくよ」
 と駆け寄って手を差し出したが、「送ってもらうほどの距離じゃないから」 とにべもなく断られた。更に追い立てるように、ほら、拓海も早く戻らないと、とぽんと肩を叩かれ、渋々諦める。こういう時の鏡花は結構頑固だから、何度言っても無駄だろう。
 顔を戻すと、陽介と宙人はさっさと教室に向かっているところだった。もう一度名残惜しげに、小さくなっていく鏡花の後ろ姿を見つめてから、あとでまた様子を見に行こうと心に決めて、踵を返し二人の背中を追いかける。
「……あの」
 と、声を掛けられたのは、その時だ。
 ん? と振り返ると、一人の女の子が俯きがちに立っていた。誰でも話しかけられれば気軽に返事をする拓海だが、実は同じクラスの人間の顔や名前さえも割りとあやふやにしか覚えていないような人間であったりするので、同じ一年生ということだけは辛うじて判っても、それ以外のことはさっぱりだ。
「なに?」
 口許に、「万人向け」 の笑みを貼り付けて答える。まさか、こんな時に告白云々があるんじゃないだろうな、と訝しむが、それを顔に出したりはしない。
 女の子は、しばらく躊躇ったあとで、おずおずと口を開いた。
「あの、怪我の具合……どうだった?」
「は?」
 間抜けな声で問い返してから、ぴんときた。
 ──鏡花を助けてくれた、「通りすがりの女の子」 だ。
 そつのない笑顔を、少し和らげる。心配になって、また様子を見に来てくれたのか、と思ったからだ。
「ああ、足を捻ったけど、大丈夫だって。君がキョーカちゃんを助けてくれたんだろ? ありがとね」
 感謝の気持ちはもちろんあるが、どちらかといえば、何も言えなかったと気にしていた鏡花のために、拓海は礼の言葉を口にした。これで、少しは鏡花も安心するだろう。
 しかし、女の子は浮かない顔のままだ。
「ごめんなさい……。あたし、近くにいたのに、止められなくて」
 逆に謝られ、拓海はきょとんとして瞳を瞬く。階段から落ちた人間を助けられなかったと落ち込んでいるのだろうか。今時珍しい、よっぽど責任感の強い子なのかな、と不審に思う。
「別に、足を踏み外すのは、止められないでしょ。まあ、俺が傍にいれば落ちる前に止められたかもしれないけど、それ以外は普通、無理じゃない? 謝ってもらうようなことじゃないと思うけど」
 少しだけ困惑しながら、それでも曖昧に笑って言うと、女の子は却って怪訝な面持ちになって、拓海を見返してきた。
「え……足を、踏み外すって。あの人から、聞いてないの?」
「? なにを?」
「なにって、女の子たちに、後ろから……え、じゃあ……」
 女の子は、口に手を当て、明らかに 「しまった」 という顔をした。みるみるその表情が強張ってきたのは、多分、拓海の顔からすうっと血の気が引いていくのを、目の当たりにしたからだ。
「なんだよ、それ」
 拓海の口から出たのは、我ながら驚くほど、鋭く尖った声だった。



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