月の花

ACT16.絶対不可侵領域




 遊びに行った鏡花の家で、拓海の前に広げられたのは、四枚の入場券であった。
 ──室内温水プールご優待券、と、ある。
「………………」
 リビングのテーブルに並べられたそれを見て、拓海は無言だ。その無言をどう解釈したのか、鏡花はいつも通りの淡々とした口調で説明を始めた。
「あのね、これ、お母さんが会社のお得意様に貰ったんだって。無料なのはいいんだけど、使用期限があと一週間しかないし、雪菜が行きたがってるから、明日の土曜日にでも行ってこようと思うの。それで、突然で悪いんだけど、よかったら拓海も一緒にどうかなって……」
「ラッキーよねー。このプール、最近出来たばっかりで、すごく広くて綺麗って評判なのよ。前から行きたいと思ってたんだけど、なにしろ入場料が高くって、とても中学生のお小遣いで行けるようなところじゃないんだもん。大人向けの高級志向を狙ってるらしいけど、たかだかプールじゃないの、ねえ?」
 鏡花の隣に座って不満をぶちあげる雪菜であるが、タダでプールに行けることについては何の文句もないらしい。券を手に取ってためつすがめつしては、ニコニコしている。
「なかなかこんなチャンスないんだから、拓ちゃんもあたしとお姉ちゃんに感謝してよね。──拓ちゃん?」
 名前を呼ぶ雪菜の声に訝しげなものが混じったのは、さっきから拓海が入場券を見つめたまま、一言も言葉を発しないことに、今更のように気がついたからだ。……何も言わないというか、よくよく見れば、身動きもしていないような。
 同様に、鏡花も拓海のそんな様子に気がついたのだろう。
「あの……ごめんね。急なことだし、無理だったら、別にいいから」
 申し訳なさそうに言う鏡花の声で我に返ったのか、拓海がぱっと顔を上げ、引っ込められようとした入場券を慌てて掴んだ。
「え、なに言ってんの、キョーカちゃん。もちろん、行くよ。俺もこのプール、行ってみたかったんだよね」
 その割りには、顔が少し引き攣っているのだが。
「でも、拓海」
「いやホント、明日ね、うん楽しみだな、はははは」
 ものすごく一本調子で笑ったあと、「あのさ、キョーカちゃん、俺ちょっと喉が渇いちゃって。悪いけど、何か飲ませてくれる?」 と、唐突なことを言い出す。鏡花は素直に詫びながら立ち上がりキッチンに向かったが、雪菜はもちろん、拓海のそのわざとらしい意図に気づいた。
「……なんなのよ、拓ちゃん。行きたくないなら、ホントに無理しなくていいのよ?」
 行きたくはないが断れない、なんていう殊勝なタイプではないような気がするのだが、とにかく鏡花の前では言いにくいことがあるらしいのは察して、雪菜は眉を寄せながら声を潜めて言った。
 ひょっとして、拓ちゃんてカナヅチだったっけ……などと考え、すぐに打ち消す。顔もいいが運動神経だっていいというこの腹立たしい男は、確か小学校の水泳大会で、上位入賞を果たしたこともあるのだったと思い出したのだ。
 拓海はまだ目の前の入場券を睨むようにして何かを考えているようだったが、やがて決然として雪菜に顔を向けると、
「雪菜、残りの一枚で道明を誘え」
 と、有無を言わせない口調で命令した。
「は? ミッチー?」
 突然出てきた同級生の名前に、雪菜はきょとんとするばかりだ。人の好さが最大の取り柄だというその男の子は、雪菜とは別に彼氏彼女の関係ではないが、一度ワケありのデートをしてから少しだけ親しくお喋りする仲でもある。
「なんで」
「お前、俺とキョーカちゃんは春から付き合い始めたんだぞ」
 雪菜の疑問に、なんの答えにもなっていないことを堂々と言う拓海は、依然として整った顔立ちを厳しく引き締めている。ドラマの主人公さながらの決め顔である。どうせ、くっだらないことを考えているに違いないのだが。
「それが?」
「春に付き合い始めた俺たちが、夏休みの間、プールにも海にも行かなかったのは、何でだと思ってんだよ」
「……なんで?」
 なんか、あんまり聞きたくない。
「俺がまだ見てもいないキョーカちゃんの白い肌を、他の男に見せるのがイヤだったからに決まってんだろ!」
「………………」
 やっぱり聞かなきゃよかったわ、と後悔している雪菜の心情を置き去りに、拓海は忌々しそうに舌打ちした。
「くっそー、夏が終わったのに、温水プールなんて、油断した。こうなったら俺がみっちり張り付いて、キョーカちゃんを男たちの下衆な視線から守ってやんないと。そのために、壁になるのは多い方がいいからな」
「…………。で、なんでミッチー? あれも一応、男の子なんだけど」
「道明は、どうせお前しか見ないからいいんだよ。和葉さんを誘うと何かろくでもない企みをされそうだし、他の女の子がいるとそれはそれで面倒なことになりかねないし、陽介や宙人にキョーカちゃんの水着姿を見せるなんて論外だ。道明が一番の適任だ」
 こんなことで適任と言われる道明が哀れである。
 はー、と溜め息をついてから、雪菜は目の前のアホ、いやいや拓海に向けて、最も無難な提案をしてみることにした。
「……じゃ、プールに行くこと自体をやめりゃいいじゃないよ。あたしが友達とでも行けばいいんでしょ」
 それを聞いて、拓海はひどく情けなさそうに眉を下げる。
「バカだな、お前。キョーカちゃんからのデートの誘いなんて滅多にないもの、俺が断れると思ってんのかよ」
「…………。バカはこの場合、どう考えても拓ちゃんよ」
 きっぱりと言いきって、雪菜はもう一度、深い溜め息をついた。
 自他共に認めるシスコンの雪菜であるが、時々、この男には負ける、と思わずにはいられない。


          ***


 その大型室内プールは、確かに広くて、綺麗だった。
 流れるプール、競泳用プール、波プールがあって、ウォータースライダーが二種類あり、しかもひとつひとつの規模が結構大きい。年齢層の上のほうを狙っているのか、高いお金を取られるだけのことはあって、更衣室や、食事をするところや、休憩のための設備なども充実していて、雰囲気も洗練されている。
 ──季節はもう冬に近いといったって、そりゃそんなところ、混雑しないわけがないのであった。
「凄い人だなあ」
 と、感嘆するように言ったのは、声を掛けられたのが前日であろうとなんだろうと、拓海と同じように好きな子からの誘いを断ることなど絶対に出来ないという、道明だ。
「気をつけてないと、はぐれちゃいそうですね」
 言いながら、さっき買ってきたペットボトルに口をつける。道明と拓海は現在、場内の売店前に据え付けられたプラスチック製の椅子に腰掛けているのだが、その視線の先にいるのは、水着姿の鏡花と雪菜である。二人で店を覗きながら、何を買おうかと相談しているらしい。
「お前は呑気でいいよなー……」
 溜め息混じりに拓海は言って、同じようにペットボトルの飲み物をぐいっと喉に流し込んだ。姉妹は二人で立っているわけだが、道明が見ているのは雪菜のほうだけだと判っているから、その点は安心だなと思う。何が安心なのかという内心のツッコミは置いといて。
「は? 呑気って?」
「俺の悩みは、お前とは別の次元にある」
 つまり、もっと低い次元のところにある悩みなのである。しかし、そんなことまで知らない道明は、不得要領な表情で瞳を瞬いた。
「……あーあ」
 ぼそっと声を落として、拓海はがっくり肩を落とした。彼が見ているのは、もちろん、鏡花ただ一人だ。
 考えてみれば、拓海だって、鏡花の水着姿を拝むのは、子供の頃、一緒に市民プールに遊びに行った時以来なのだった。学年が別だったから、水泳の授業なんかで顔を合わせることもなかったし。
 しかし、それにしても。
 ──ちょっと見ない間に、あんなに育っちゃって。
 薄々判っていたことではあるが、こうして改めて見ると、鏡花はかなりスタイルがいい方なのだ。有り体に言うと、出るべきところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。すらりとした手足は華奢で、いつもは後ろに流している髪をアップにしているため、細いうなじがなんとも色っぽい。
 鏡花が身につけている水着はそれほど露出の高いものではないものの、それでも上下に分かれたデザインだから、拓海でも見たことのなかった腰のくびれの曲線だとか、可愛い臍までが無防備なほど晒されている。柔らかそうな胸だって、はっきりとした谷間が出来ているのがしっかり見える。自分に見えるということは、当然ながら他の人間にだって見えるということで、拓海にはそれが気に入らない。
「お前もちゃんと見張ってろよ。他の男にちょっかいかけられないように」
 発達途上とはいえ、雪菜だってまあまあ目立つ容姿をしているので、拓海は忠告するように道明に言ったのだが、彼はそれを聞いて、少し複雑そうな顔をした。
「……はあ。まあ、そりゃ、そういう心配もあるかもしれないけど、でもどっちかっていうと、今現在このあたりで一番周りの視線を集めてるのは、拓海さんですよ」
 先ほどからずっと、道明がちらちらと周囲の女の子たちに目をやっているのは、こっちに向かってくるその視線を気にしてのことなのだろう。拓海自身はそちらには一顧だにせず、あくまで鏡花の方に目線を据えながら、道明を牽制する。
「振り向くなよ。目が合うと、突撃してくるぞ」
「熊とか猪とかじゃないんだから」
 道明は呆れたように言ったが、拓海はかなりの線で本気である。なにしろ、そのテのことは嫌というほど経験済みだ。水着というのは人を解放的な気分にさせる魔力でも備わっているのか、逆ナンされる確率は圧倒的に街中よりも多い。そういう意味でも、プールや海というのは、拓海にとっての鬼門なのだった。
 道明は、少し不思議そうな顔をした。
「前から思ってたんだけど、拓海さんて、なんか、女の子にもてるの、あんまり嬉しそうじゃないですよね」
「……百万人の女の子に好かれても、一人の女の子に好きになってもらえなきゃ、意味がないだろ」
「え、いや、百万人は、ちょっと言いすぎじゃないかな……」
 もごもごと道明は口の中で呟いている。しかし、十人だろうが百人だろうが、拓海にとっては同じことだ。
 ……誰に好かれようと、たった一人の女の子に好きになってもらえなければ、意味がないのだから。
 そんなわけで、拓海は自分に降ってくる視線のことは故意に気にしないようにして、鏡花を眺めるのに専念することにした。せっかくの機会だから、こうなったらちゃんと見ておこう、と下心丸出しで思ったからなのだが、雪菜との会話に気を取られているらしい鏡花は、ただでさえ混雑している中で、動き回る他人にぶつかられたりしていて、それが男だったりすると、どうにもこうにも苛々が募る一方だ。

「──俺って、独占欲が強すぎるのかなあ」

 無意識のように漏らしてしまった言葉は、幸いにして、道明の耳にまでは届かなかったらしい。「そうですね」 なんてあっさり頷かれたら、ちょっと落ち込みそうだから、聞こえなくてよかった。
 多分、拓海の独占欲や嫉妬深さは、不安の裏返しだ。それは、自分でも判っている。鏡花を捕まえておかなければ気が済まない子供っぽさは、我が儘を言って、それがどこまで許されるのかと見極めようとするところと通じる。
 ──受け入れられることを確認して、ようやくほっと息をつける気分になるのは、きっと、拓海自身の中に、根深い不安が巣食っているからなのだろう。
 鏡花は、拓海と違い、ほとんど独占欲も嫉妬心も見せたりしない。それが彼女の性格だとは知っているのだが、拓海はそのことに、時々どうしようもなく焦れてしまう時がある。
 なんとなく、鏡花には、気を抜くと、ふいっと逃げてしまうような心許ないところがあって、そういうところを見ると、キョーカちゃんは、本当に俺のこと好きなのかな? と疑問に思ってしまうのだ。
 同じ 「好き」 でも形は違う、と、以前、陽介に言われたけれど。
 それでも、もっともっと強く彼女に自分を求めて欲しい、と思うのは、身勝手な考えなのか。
 拓海は、鏡花を失うことがなにより怖い。だから、何があっても離したくない。絶対に誰にも渡したくないから、本音を言うなら、自分以外の人間には見せたくないし、触れさせたくもない。
 ……鏡花にもそう思って欲しいと願うのは、拓海の強欲なんだろうか。


          ***


 その後、「ウォータースライダーやってくるー!」 と雪菜が元気に駆け出して行き、道明はもちろん彼女に従った。あの二人を見ていると、彼氏彼女というよりは、女王様と下僕みたいだよなあ、と拓海は思うのだが、道明本人が幸せそうなんだから、それでいいのだろう。
 鏡花はそちらにはさほど興味がなさそうだったので、拓海は彼女を誘い、流れるプールでゆったりと流れに身を任せることにした。
 大きな浮き輪に鏡花を閉じ込め、自分はその浮き輪の端に手を掛けて、ぷかぷか浮かびながら二人でお喋りを楽しむのは気分がよかった。これなら鏡花の水着姿も隠れてちょうどいい、なんて考えているあたり、少々せせこましいのだが。
 目線を下げると、鏡花の胸の谷間やら、そのあたりの滑らかな肌やらが間近にあって、道明ほど純朴にはなれない拓海にとっては、それもかなり嬉しかったりする。とはいえ、あんまりそこばかりを見ていると、あらぬ方向へ妄想が進んでいってしまいそうで、青少年はこれでなかなか大変だ。
 やっぱりプールってのも、悪くないかも……と調子のいいことを思っていたら、後ろから、どん、と誰かが背中にぶつかってきた。
「あっ、ごめんなさい」
 と謝りながら笑いかけてきたのは若い女の子で、「こっちこそ」 と拓海がいつものそつのない笑顔で応じると、彼女は更に笑みを含んだ瞳になって、近くにいる友人らしき女の子のほうに戻っていった。二人で何かをこそこそと話しては、きゃっきゃっと明るい歓声を立てている。
 女の子って、そんなにプールが好きなのか、とその様子を見ながら、拓海は感心するように思った。だったら、やっぱりキョーカちゃんももっと早くに連れて行ってやればよかったかな。
 それにしても、やはり人が多いせいか、よくぶつかられる。さっきから、拓海は何度か、同じような遣り取りを繰り返しているのだ。
「ま、土曜だから、混んでるのはしょうがないか。迷子になるといけないから、キョーカちゃんも俺の傍を離れたらダメだよ」
「………………」
 からかい混じりに言った拓海の言葉に、鏡花からの返事は返ってこなかった。
 その代わりに、鏡花はいきなり、足をプールの床に着けてすっくと立つと、自分の浮き輪を持ち上げて一気に外した。波が立ち、水飛沫がぱっと跳ねる。
「どうしたの、キョーカちゃん?」
 まさか子供扱いされたことを怒ったわけじゃないよな、と驚いて問いかけると、その拓海に、鏡花は今まで自分が使っていた浮き輪を、頭から勢いよくずぼっと被せてきた。唐突な行動の連続に、拓海は目を白黒させるしかない。
 しょうがなくそのまま浮き輪の中に大人しく嵌まったが、何がなんだか判らないままである。
 さっきまでの拓海と同じように、今度は鏡花が浮き輪の端に手を掛けながら、ざぶんと音を立てて水に浸かった。すっぽり首の上まで入ってしまったから、せっかく後ろで纏めてある髪の毛までが濡れそうだ。
「……判らないの? 拓海」
 ぼそりと言う鏡花の顔は、拓海には向けられていない。横顔から窺い見られる表情も、特に変化はない。しかしなんだか、かろうじて水の上に出ている耳が少し赤らんでいるような気はする。
「え、なにが?」
「……女の子たちに、わざと、ぶつかられてる」
「………………」
 言われて、はじめて拓海も思い当たった。
 そういえば、さっきからずっと、背中にぶつかってくるのは、女の子ばっかりだったような。
 よく考えてみれば、いくら人が多いといっても、プール自体は結構な広さがあるのだし、流れは一定なんだし、張り切って泳ぐ子供でもなきゃ、そうそうこの中で他人に当たったりはしないかもしれない。今になって気づくのも、間抜けな話だ。
 拓海とお喋りをするために、進行方向とは逆を向いていた鏡花には、後ろから近付いてくる女の子たちの意図がよく見えていたのだろう。
 で、これ以上拓海が女の子にぶつかられないようにするために、遮断壁代わりの浮き輪を渡したと。
 ──それって。
「キョーカちゃん、もしかして、ヤキモチやいてる?」
 我ながら少しタチが悪いなと思うのだが、確認せずにはいられなくなって聞いてみたら、鏡花は、ますます赤らめた顔を、水の中に沈めていった。このままでは溺れかねないので、慌てて水中の彼女の手を握って捕まえる。
「…………私って、心が狭い」
 鏡花が、視線をどこか余所に向けながら、ぽつりと呟いた。
 表情は変わらなくても、声音を聞く限り、どうやらこんな些細なことで、かなり本気で落ち込んでいるようだ。相変わらず、不可思議な思考の持ち主だなと、思わず笑い出して、拓海は更に強い力で鏡花の手を握り締める。
「キョーカちゃんの心が狭いって言うんなら、俺の心なんか、狭すぎて蟻の入る隙間もないよ」
 他の女の子に触れられたくない──と。
 鏡花にも、ちゃんとそういう独占欲や嫉妬心があることを知って、今の拓海がどんなにほっとしているかなんて、きっと彼女には判らないんだろう。そのことに、拓海が、どんなに安心して、どんなに嬉しく思っているのか、なんてことも。
 この気持ちをどう言って伝えたらいいかなとちょっと迷ってから、拓海は鏡花の耳元へ自分の唇を寄せ、囁いた。
「……けど、どんだけ狭くても、俺の心は、いつだってキョーカちゃんのものだからね」
「………………」
 無言で俯いてしまった鏡花の顔は見えなかったけれど、覗く耳はやっぱり赤いままだった。
 水の中で、ひそやかに繋がれている指が絡まる。
 拓海はそっと目を細めた。
 その言葉が、どこまで限りなく真実であるかということだって、多分、鏡花は判ってはいないだろう。
 ──そこに、どれほどの願いと誓いが込められているかということも。

 俺の心は、キョーカちゃんのものだよ。
 昔も、今も、これからも。
 他の誰にも、立ち入らせないし、渡さない。
 ……それは、君だけのものだから。



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