月の花

ACT18.面接試験を突破せよ




 拓海と鏡花が学校から帰る時は、最寄り駅から家までの間に、川沿いの土手に面した道を歩いていかねばならない。
 そこは、今はもう葉っぱのほとんどない寂しげな桜並木が続いているばかりで、あまり障害物がない。よって、もう大分冷え込んできたこの季節、木枯らしが吹いたりすると、川を渡ってきた冷気がまともに当たってかなり寒いのだ。
 まだコートや手袋で防寒をするほどではないのだが、かといって、日暮れも早まって既に薄暗くなったきた今のような時間帯には、制服の上にカーディガンしか羽織っていない鏡花が、川向こうから吹きつける冷たい風に身を縮めたのも無理はなかった。
「……さむ」
 呟いて、自分の両手に息を吹きかけたりする姿はもう文句なしで可愛いが、だからってそれを眺めるだけで満足するほど、拓海は気の利かない男ではない。
「キョーカちゃんのそのカーディガン、ちょっと薄いもんな。俺の着なよ」
 と、自分が制服の上に着ていたパーカーを脱ごうと手をかけたところで、鏡花が少し驚いたような顔で、それを押しとどめた。
「え、ダメだよ。私、そういうつもりで言ったんじゃない」
「そんなのは判ってるよ。別に、気にするようなことじゃないって。単に、キョーカちゃんは寒くて、俺はそんなに寒くない。だから俺の上着を貸してあげる、っていう合理的な話でしょ、これは」
「合理的っていうのとは違うと思う。拓海が今あんまり寒くないのは上着を着ているからであって、私に渡したら寒くなるでしょう」
「俺のはキョーカちゃんのより分厚いからね。だから、寒そうなキョーカちゃんに着て欲しいんじゃないか」
「なんだか、話がループしているように思えるんだけど。とにかく、大丈夫だから」
「キョーカちゃんの 『大丈夫』 は大丈夫だったためしがないんだよ。いいから、ホラ、早く着て。こんな所で突っ立ってたら、それこそ二人して風邪を引いちゃうだろ」
「うん、だから、上着を脱いだら風邪を引くって──」
「俺は男で、寒さにも強いし、体力も抵抗力もあるから平気なの。キョーカちゃんは、そんなに体力もない、か弱い女の子でしょ」
「だったら私、体力をつけるためにも、走って帰る」
「いやいやキョーカちゃん、その結論はおかしいよね? 自分の恋人に上着を貸してあげようとして、なんで全力で追いかけっこをしなきゃいけないのか、冷静に考えてみようよ」
 埒の明かない会話を延々としてから、拓海はようやくこの不毛な状況を打破する方法を思いついた。
「じゃあさ、こうしよう」
 笑いながら言って、上着は脱がずに、そのまま手を伸ばして鏡花の背中に廻して引き寄せる。ちょっと力を入れただけで容易く腕の中に入ってきたその身体を、ぎゅうっと強く抱き締めた。
 突然の行動に、鏡花はびっくりしたのかかちんと固まっていたが、そこから逃げようという素振りはなく、じっと大人しくしている。
 そのことにかなり気を良くして、拓海はすぐ傍にある鏡花の髪の毛に押し付けるように、自分の頬をすり寄せた。腕の中の鏡花の身体は華奢でやわらかくて、ついでに言うと仄かに甘い匂いが鼻腔をくすぐったりして、頭が痺れるような感覚に襲われる。
「……あったかい?」
 自分の胸に押し付けられた鏡花の表情は見えなかったが、髪の間から覗く赤く染まった耳に囁くように問いかけると、細い肩がぴくりと震えた。
「──うん」
 ぽつりと返事があって、鏡花の両の手が、ぎゅ、と拓海の上着を握る。お互い冷えた身体同士なのに、こうしてくっついていると、ぽかぽかとした熱が伝わってきて、心まで温かくなるような気がするのは不思議だな、と拓海は思った。鏡花も、そう思っているといいのだが。
 そういえば、拓海がこんな風に鏡花を抱き締めたりするのは、本当に数えるくらいしかないのだった。遠慮している、ということでは全然なく、なかなかそういうことをする機会がないのだ。手を伸ばす口実はともかく、親掛かりの高校生では、いちゃいちゃする場所も時間もあんまりない。
 なので、抱いている鏡花の後ろから、通行人の男性がやってくるのが視界に入っても、拓海はまったく気にせず、その体勢を解きもしなかった。鏡花が気づけば多分ぱっと自分から離れるだろうから、むしろますます背中に置いた手に力を込めた。公道でイチャつく若いバカップルに、大人が苦い顔をするのは判っているが、こちらにはこちらの都合がある。
 ──が。
 近付いてきた仕事帰りらしい背広姿の中年男性は、自分たちの傍まで来ると、ぴたりと足を止めた。え、なに、お叱りでも受けんの? と怪訝に思って、咄嗟に鏡花を庇おうとした動作が伝わったのか、鏡花が顔を上げ、その男性に目をやる。
 そして、今度こそ本当に驚いた顔をして、
「……お父さん」
 と、口にした。
 えええええ?! と、泡を吹いて倒れそうになった拓海には構わずに、その男性、つまり鏡花の父は、自分の娘に向かって、にこりと笑った。
「鏡花、今、帰るところか?」
「あ、うん。お父さん、今日はどうしてこんなに早いの?」
 鏡花は恋人との抱擁を見られた照れよりも、驚きのほうが大きかったらしい。きっとそれくらい、父親の早い帰宅が珍しいことなのだろう。鏡花の両親は、二人揃って多忙な人たちで、しょっちゅう鏡花の家に遊びに行っている拓海でさえ、鏡花の母に会ったことがほとんどない。父親に至っては、平日の帰宅はほぼ深夜、休日も接待なんかで不在のことが多く、考えてみればこんなにご近所付き合いが長いのに、まともに顔を合わせたのはこれが初めてのことだった。
 はた、と気づく。

 ……その初対面のシチュエーションが 「コレ」 って、けっこう最悪なんじゃないですか?

「会社で亡くなった人がいてね、今日はそのお通夜があるんだよ。それで、喪服に着替えるために一旦帰ってきたんだ」
 しんみりとしてそう言う鏡花の父は、見た目も精神年齢も若い拓海の両親と違い、有能なサラリーマンらしい引き締まった年齢相応の顔をしていたが、やはりどこか鏡花と似ていた。
 彼は、ふう、と溜め息を吐いて続けた。
「いやー、やっぱり、働きすぎは良くないよね。お父さんはね、今回それを思い知ったよ。仕事仕事で余裕がなくて、病院に行く暇もないから病気の進行に気づかないし、いつの間にやら 『悪いもの』 が大事なところにとりついていても目が届かないし、知った時には既に手遅れだったりするし」
 さらりと口から出た皮肉に、もちろん拓海は気づいたが、鏡花は気づかなかったようだ。
「そうだね。お父さんも、健康には気をつけないとね」
 と、すっとぼけたことを真面目に言ってから、改めて拓海をちらりと見て、また父親へ目を戻す。
「あのね、お父さん、会うのは初めてだと思うけど……」
「じゃあ、帰ろうか。今日は寒いねえ」
 彼氏を紹介しようとした鏡花の言葉を完全に無視して、鏡花の父は娘の肩にぽんと手を置いた。拓海に 「はじめまして」 と挨拶させる隙をまったく与えないあたり、デキる男なのだなと感心してしまいそうになるが、感心している場合ではない。
「──あの」
 勇気を出して声をかけたが、鏡花の父は、今なんか風が鳴ったかな? という顔をして、それを聞き流した。視線は見事なまでに拓海の上を素通りだ。
「今日もお母さんは遅いのか? まだ時間があるし、雪菜も連れて、三人で外食でもしようか。お母さんには電話しておけばいいだろう」
「え? うん、それはいいけど、お父さん、たく──」
「よし、さあ帰ろう。何を食べようかなー」
 鏡花の父は、拓海を透明人間として扱うことを断固として決めたらしく、そのまま娘の背中をぐいぐい押して、強引にその場から立ち去ろうとした。困惑しながら何かを言いかけ、後ろを振り向く鏡花にもまったく頓着しない。
 その鏡花に引き攣った笑顔を向けて手を振り、拓海は、「俺のことは気にしなくていいから」 という意思表示をしてみせる。父親に背を押されながらも、鏡花はもの言いたげにちらちらと拓海を気にしていたが、拓海が何度も同じことを繰り返すと、結局、申し訳なさそうに小さく手を振った。
 二人の背中が遠ざかってから、肩を落とした拓海は、はあーーーっと、心の底から深い息を吐き出した。


          ***


 翌朝学校へ行くために迎えに行くと、家から出てきた鏡花は、開口一番、拓海に向かって父の無礼を謝罪した。昨日、帰ってからすぐに携帯でも謝っていたのに、よっぽど気にしているらしい。
「ごめんね……うちの父が失礼な態度を取って」
「いや、ホント、気にしなくていいからさ。あの状況じゃ、おじさんが気分悪くすんの、無理ないし」
 人によっては一発殴られても無理はないくらいなのだから、鏡花の父は紳士的なほうだ、と拓海は思っていた。確かに、ちょっと大人げはないけどさ。
 しかし、どうも鏡花には、そんな男親の心境がまったく理解できないようで、不可解そうに首を傾げるばかりだ。鏡花が少々特殊なのか、それとも娘というのは一般的にこういうものなのか、迷うところである。
「気分を悪くするのは、拓海のほうでしょう。お父さん、いつもはあんなことする人じゃないんだけど。でもね、あとでやっぱり反省したらしくて、拓海に謝りたいんだって。それで、今度の日曜日はうちにいるから、ちょっと顔を見せにおいでって伝えるように言われたんだけど……」
「え」
 拓海はぎょっとした。
 ──謝りたい?
 いや、違うよな。父親が娘の彼氏を連れてこいなんて言うのは、どう考えても 「謝りたい」 なんて理由じゃないよな。娘に手を出す不埒な野郎を、見極めてやろうとか苛めてやろうとか脅してやろうとか、とにかくそういう意図の下にあるものだよな。
 と、いうことは判りきっているのだが、無論それを口にしたりできるわけがない。表情も動きも止めて、石になっている拓海に、鏡花は気遣うような声を出した。
「あのね、別に、イヤなら……」
「とんでもない」
 速攻で鏡花の言葉を遮る。断って、恋人の父親に、これ以上の悪印象を与えるわけにはいかない。
「……伺わせていただきます」
 なぜか敬語になって、真顔で頭を下げる拓海に、鏡花は非常に戸惑った顔をした。


          ***


 そして日曜日、「ちょっと顔を見せに」 行った拓海に対して、鏡花の父は、この間とは打って変わったように、にこにこと機嫌の良い笑顔を向けてきた。
「………………」
 怖い。なんかもう、安心どころか、その笑顔が逆に怖い。
 こんにちは、と強張って挨拶すると、
「ああ、いらっしゃい。いやあ、先日は失礼したね。君がいたこと、気がつかなくて」
 しれしれと嘘をつかれ、ははははは、と笑ってみせるしかない。やっぱイジメだ。
 勧められるままリビングで向き合って座ると、鏡花の父は、どことなく心配そうな顔をしている鏡花の方を振り向き、「お茶を淹れてくれるかな」 と依頼した。
 ──来た、と身構えてしまう拓海である。二人きりになって、何を言われるんだろう。
 鏡花が出て行くと、鏡花の父は緊張して固くなっている拓海を振り返り、穏やかに微笑んだ。
「今日は、妻が仕事でいなくてね。雪菜も遊びに行ってしまったし。──恥ずかしい話だけれど、この家は、なかなか一家揃うことがなくて」
 そう言って、面目ない、というように頭に手をやる。あれ、と拓海はちょっと拍子抜けしてその様子を眺めた。
 なんか──随分、雰囲気が違うような。
 いや、きっともともと、こういう人なのだろう。知的で、静かで、目下の人間にも礼儀正しい態度を崩さない。それは 「鏡花の父」 というイメージにもよく合っていた。
「拓海君は知っていると思うのだけど、鏡花と雪菜が小さい頃から、僕も妻も仕事に追われていて、あまり二人を構ってやれなかったんだ。もちろん、愛情をもって接していたつもりだけど、絶対的に親として子供達に関わった時間が少ないのは間違いない。そのせいで、雪菜は姉を親代わりにするようになってしまったし、鏡花は──」
 そこで、彼は少し声を落とした。
「……鏡花は、甘えることを知らない子供として育ってしまった」
「………………」
「僕らは、どうしても二人に対して拭いきれない負い目がある。だからだな、鏡花が君に甘えるところを見て、驚いたし羨ましかったし、敗北感を味わわされた。要するに、ものすごく悔しかったんだよ」
 それで、あんな子供じみた意地悪をしてしまったんだ、悪かったね、と言って、楽しそうに笑った。
「……キョーカちゃんが、俺に?」
 意外そうに問い返した拓海を、鏡花の父は却って不思議に思ったのだろう、きょとんとした顔をした。
「そうだよ。あの鏡花が、あんな場所で、人目も憚らず誰かと抱き合うなんて、僕にとっては驚天動地の出来事だったよ。まあその件に関しては色々と言いたいこともあるんだけれど、それは別として、それだけ鏡花が君という存在に安心してる、ってことだろう? あの子は他人に対して寛容だけれど、人の好意を甘んじて受け入れるということを苦手にしているようだったから、それは格段の進歩だと思うけどね」
「………………」
 拓海の沈黙をどう受け取ったのか、鏡花の父はふっと息を短く吐き出した。嬉しさと寂しさと、そういったものが少しずつ混じった、複雑そうな吐息だった。
「──この間、君に意地悪をしてからね、僕は鏡花にものすごく怒られた」
「は?」
 それを聞いて、拓海は耳を疑った。あの鏡花が、「ものすごく怒る」?
「拓海にあんなひどい真似をして、どういうつもりなのって。あんな扱われ方をした、拓海の気持ちを考えてみたのって。……拓海君、鏡花が怒ったところ、見たことがあるかい?」
「いや……幼稚園の頃から、ほとんど記憶にないですけど」
「怖いよ」
 しみじみとした口調には、非常に実感が篭もっている。
「………………」
「僕もあの子のあんなところ、小さな頃からほとんど見たことがなかったからねえ。ほんっとに、怖かった。表情は変わらないし、声も荒げないのに、怒りのオーラが目に見えるくらい全身から滲み出てるんだよ。あの雪菜でさえ、言葉を失ってたくらいだ。君も、気をつけてね」
「……はあ、肝に銘じます」
 神妙な顔をして返事をすると、鏡花の父はくすくすと笑った。
「君たちはまだまだ若いんだし、これからいろんなことがあるんだろうね。楽しいこともあれば、辛いこともあると思う。この先二人に何があっても、誤った道へ行かない限り、僕と妻は口出しすることはしないけれど──うん、そうだな、父親としてひとつだけ、身勝手なことを言わせてもらうと」
 口元の笑みを消して、今度は真面目な顔をし、真っ直ぐ拓海を見据える。拓海は顔を上げて、その視線をきちんと受け止めた。
「……出来れば、あの子があまり、泣くことのないように」
「………………」
 口を噤んで、拓海は、その言葉になんと答えればいいのか考えた。
 もちろん、泣かせたくなんてない。「はい」 と頷くことは簡単だ。でもなんとなく、その答え方は、自分の心の中のものとは少しずれているような気がする。
 望む未来はあまりにも曖昧すぎて、今の拓海は、それを口に出せる立場になんてない。自分の足許だって見えていないのに、都合のいい約束なんて出来っこない。ずっと鏡花の傍にいることを求めているのは本当だけれど、現在の自分には、それを正面きって言えるだけの自信がない。
 感情的で、子供で、大事なことだってまだ言い出せない自分。
 ……けど。
 けど、キョーカちゃん、俺は──
「……俺は、キョーカちゃんが、いつも笑っていてくれるといいと、思ってます」
 拓海は一言ずつを区切るようにして、出来る限り真摯に、そう言った。

 この先のことは、判らないことばかりだけれど。
 でも、せめて。
 楽しそうに、幸せそうに。
 いつでも君が、ほんのりとした笑顔でいてくれることだけを、願ってる。

「……うん」
 鏡花の父は、拓海の言葉に静かに微笑んで、頷いた。
「自分の娘ながら時々よく判らないところもあるけど、鏡花はいい子だよ」
「はい」
「親馬鹿かもしれないけど、鏡花も雪菜も、僕にとっては可愛い娘なんだ」
「はい」
「その可愛い娘に、悪さはしちゃ駄目だよ」
「…………はい?」
 気づいてみれば、いつの間にか鏡花の父は、最初に見た時のような、愛想はいいのだが何を考えてんだかさっぱり判らない、不気味なにこにこ笑いを顔に貼り付けていた。
 はい? と拓海が瞳を瞬くと、更ににっこりと笑みを深める。怖い怖い、マジ怖い。
「高校生なんだから、節度を持った、健全な付き合いをしようね、拓海君」
「………………」
 ──このお父さんの考える、「高校生同士の健全な付き合い」 ってどんなんだ、と拓海は冷や汗をかきながら、ぐるんぐるんと思考をめぐらせた。
 範囲が判らない。というかこれ、迂闊に頷いちゃっていいのだろうか。自分としては、鏡花とは今のところかなり健全な付き合いをしていると思っているのだが、それがいつまで続くのかなんて、まったく保証できないぞ。抱き合っているところはもう見られてしまったわけだが、だったら、キスはいいのだろうか。舌を入れるところまでいっちゃっているのだが、父親的にはそれは可なのか不可なのか。いや絶対不可に決まっているんだけど。
「……えーと……」
 善処します、と、国会答弁のようなことを小さな声で言って、拓海はがっくりとうな垂れた。
 父親面接って、難しい。



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