月の花

ACT7.少年よ大志を抱け




 この高校はけっこうレベル的に高いところにある進学校なので、当然ながら自分の成績について関心の高い人間が大半を占める。
 よってこの学校の生徒達は、内申に直接響きがちな試験の前ともなると、恋や愛なんてものはいっとき脇に置いといて、目の色を変えて一心不乱に勉強に取り組もうとするのが普通だ。
 ……普通はね。
「なのにお前という男は、こんな時までへらへらしてるし。このクラス内の殺伐とした雰囲気が感じ取れないのか。せめて教科書くらい開いたらどうなんだ、拓海」
「やだな、チュー太君。だって陽介は頭いいけど試験に有意義な情報なんて絶対に教えてくれないし、俺だってどうせ勉強するなら、キョーカちゃんと仲良く楽しく勉強したほうがいい、ってだけの話じゃん」
 忌々しそうに言った宙人の言葉に、拓海はやっぱりへらへらしながら答えた。ちなみに、宙人という名前はもちろん、「チュー太」 などという読み方ではなく 「そらと」 と読むのが正しい。こうして平仮名にしてみると、まったく原形を留めていないのに、拓海は勝手にそう呼ぶのだ。可愛い顔立ちをしたこの男は、けっこう傍若無人な性格であるにも関わらず、不思議と誰からも憎まれない。
 拓海に言われても、目の前に座っている陽介は知らんぷりで黙々と自分の試験勉強を続けている。宙人は高校に入ってから、同じクラスになったこの二人と行動を共にするようになったのだが、陽介はとにかく自分の成績に関することだけは心が狭く (過去によっぽど腹に据えかねることがあったらしい)、拓海の思考はいつだって 「キョーカちゃん」 中心だという、妙な人間達であった。
「彼女と一緒に、一体なんの勉強をするつもりなんだよ」
「え。そんなこと口に出しては言えないよ、彼女のいないチュー太君たちの前で」
「うわ、ムカつく」
「宙人、拓海のアホと鏡花さんのことについて、あまり深く首を突っ込まない方がいいぞ。怖くなるからな」
「なに、それ」
 それでもまあ、二人とも根っこのところでは気のいい、付き合いやすい奴らであるから、教師不在の自習で皆が躍起になって試験勉強をしているこの教室の中、こうして三人で固まって、勉強のような雑談のようなことを続けているわけなのだけれども。
 ……けれども実はこの頃、宙人は拓海の能天気な顔を見ると、精神的にしんどくなることがあるのだ。
 それは決してこの男のせいではないし、判っているからこそ自分だってなるべく表には出さないように努めてはいるのだが、どうしても、胸にしこりが出来たように息苦しくなってしまう時がある。
 つまらないことだ。その理由に思い当たるたび、自分の器の小ささを知らされるようで、宙人自身げんなりしてしまうくらいの。


 それはただ、入学した時から宙人が気になっていた女の子が拓海を好きだということを、最近になって知った──それだけのことなのだから。


          ***


 それなのに、よりにもよって、その女の子が拓海に告白する場面に遭遇してしまうなんて、一体どういう運命の悪戯なのだろう。
 これまでの、そう長くはない人生において、間違いなくワースト3以内に輝きそうなその事態で、宙人はひたすら建物の影に隠れるように、身長だけはひょろりと高い自分の体を必死になって縮めているしかなかった。なんで自分は今日この時、放課後のひと気のない渡り廊下、などというところに来てしまったのかと、我が身の不運を呪う他にない。
 ずっと好きだったの、と女の子の口から出るか細い声を、宙人はひどく惨めな気持ちになって聞いた。
「俺、付き合ってるひとがいるからさ」
 こちらに背を向けている拓海の顔は見えないし、声もいつもと同じだったけれど、宙人にしてみると、その言い方は、非常に素っ気ないものに聞こえてしまう。驚きもせず慌てもしない態度は、ひがみかもしれないが物慣れたものにも思えて、腹が立ってくるほどだ。
 そりゃあそうさ、拓海はもてるんだから、こんなこと、何回も何十回も経験したものに決まってる。けど、彼女はあんなにも思い詰めた懸命な顔をしてるのに、そんな冷たい言い方、しなくたっていいじゃないか──
「……知ってる」
 拓海の返事に、女の子は呟くようにして答えた。付き合っている彼女がいると判っているけど、好きだという気持ちを伝えずにはいられなかった、ということかと宙人は解釈したのだが、次に続いた、
「知ってるけど、付き合って欲しい」
 という言葉には、びっくりしてしまった。
「──……」
 拓海は少しの無言のあとで、「……なんだろ、それ」 と小声で言って、くすりと笑った。
 なんだ……? と、その声音に、宙人も内心でひやりとする。拓海のこんな声、今まで聞いたことがない。こんな、突き放すような、冷淡な。
「俺に、彼女と別れて君と付き合えってこと? それとも、二股掛けろってこと?」
「………………」
 女の子は答えない。どちらでもいいということなのか、それは拓海の判断に任せるということなのか、その沈黙の意味を、宙人は測りかねる。
 拓海を見上げる女の子の瞳には、ほのかな羞恥と強い意思の他に、媚びのようなものと、隠しようのない自信が漂っているように見えた。可愛くて、明るくて、よく気の利く彼女は、クラス内でもかなり人気が高い。拓海と同じで、こういったことに慣れていて、しかも断ることはあっても、断られたことなど、きっと一度だってなかったのだろう。それでこその自負があるようにも見えた。
 どうするんだ、と宙人は鼓動が激しくなってきた。自分が気になっている女の子が、友人に手酷く振られるところも見たくはないが、拓海が現在の彼女を振ってその子に乗り換えるところも、ましてや二股を掛けることを宣言するところも見たくはない。いや、だったらさっさとこの場から立ち去ればいいんではないかと自分でも思うのだが、意思に反して、宙人の足はぴくりとも動かなかった。
「ひとつ、訊くけど」
 ようやく、拓海が口を開いた。どきり、と心臓が躍り上がるように跳ねたのは宙人のほうだ。
「君、俺のどこが好きなの?」
 それは、どこか面白がるような口調でもある。
「え……」
 女の子は、意表を突かれたように、言葉を失った。あの──と、言いかけるが、すぐに口を噤んでしまう。拓海はその反応を見て少し笑い、更に続けた。
「顔?」
「………………」
 今度こそ、女の子は押し黙ってしまう。それから、すぐにその対応をまずいと思ったのか、慌てたように首を小刻みに横に振った。いくら事実に限りなく近くても、それを認めてしまってはおしまいだ──というように。
「あの、優しいところ、とか」
「俺は確かに誰にでも愛想がいいけど、誰に対しても優しいってわけじゃないよ。まあそりゃ、彼女にだけは優しくあろうと心掛けてはいるけど、それだってあんまり上手くいったためしがない。ましてや友達とか単なるクラスメートに対しては、『優しくしてあげよう』 なんて、思ったことすらない」
 全然自慢になっていないことを堂々と言い切って、拓海はどうやら笑ったらしかった。彼の背中しか見えない宙人からしても、その笑い方は、なんかちょっと、怖かった。
「優しい男がいい、っていうなら、俺より優しい人間は他にゴマンといるんだからさ、余所を当たってみたらどうかな。俺は彼女と別れる気もないし、二股なんて掛ける気もない。嫌われたら、困るからね」
「でも──」
 それでも女の子は、尚も言い募ろうした。制服のスカートを握ったり離したり、手が忙しなく動いている。俯きがちだったが、口許は頑固そうに、そしてどことなく不満げに、ぐっと結ばれていた。
 教室内では、笑顔を絶やさず朗らかなばかりだった彼女の一面を見たような思いで、宙人はかなり意外な気がした。なんだか拓海のことを諦められないというよりは、ここで引き下がるのは自尊心が許さない、というように見えてしまう自分が、もっと意外だ。
 自分は一体、この子の 「何」 を見ていたのだろう。
「でも、拓海君の彼女って、拓海君と一緒にいても、ちっとも楽しそうには見えない」
 拓海の彼女の、鏡花さん、という人が、あまり表情に変化のない人だというのは宙人も知っている。でも拓海はそんなこと、ちっとも気にしてはいないのに、女の子の言い方は、それが許されない罪悪であるとでもいうような非難が混じっていた。
「あんな滅多に笑わないような人といて、拓海君、本当に楽しい?」
 どう見たって、鏡花さんと一緒にいる時の拓海は心の底から楽しそうだ。あれが演技だと言うのなら、宙人はこの先、重度の人間不信に陥りかねないとさえ思う。でも、この女の子の目には、そうは映らないのだろうか。楽しくないけど、無理に笑っている、ように見えるのだろうか。どうして?
 ……自分が、「そう思いたい」、から?
「ホントは、あの人に頼まれて付き合ってるんでしょ? 頼まれたんじゃなくても、寂しいとか一緒にいてとか、拓海君が同情するような態度や言葉が、あったんじゃない? あんまり、友達とかも多そうに見えないし。それで、幼馴染だからって、拓海君に」
 違うよな。絶対違う。あのデレンデレンした拓海の顔と態度から、どうしてそんな結論が出てくるんだ。大体、いくら幼馴染だからって、好きでもない女と付き合って、現在可愛い女の子から告白されているのにみすみすそれを断る男がこの世にいるとは思えない。
 ──それに、話がいつの間にか、すり替わってやしないだろうか。
 これでは、自分を選んで欲しいというより、まるで鏡花さんが拓海を誘惑する諸悪の根源みたいになっている。宙人は、どうしてもそこに、無意識かもしれないけれど女の子の少し意地の悪い底意を嗅ぎ取って、肌寒さを感じずにはいられない。
「………………」
 拓海はしばらく黙ったあと、ふう、とため息をひとつ落とした。
 そして、「……じゃあさ、ハッキリ言うけど」 と前置きしてから、再びがらりと口調を変えた。
 今度こそ、苛々を前面に出した声で。
「ずっと好きだったって君は言うけど、俺と君とはそんなに話したこともないでしょ。言葉も交わさないのに、俺の何が判るっていうの? そんなんで好きって言われても、顔が気に入ったから、っていう理由だとしか思えない。俺は俺という人間に興味を持たないような女の子と付き合うつもりなんてさらさらないんだよ」
 本当にハッキリ言った。女の子の顔色が、すうっと変わる。
 そしてその言葉は、宙人の胸にも深く突き刺さった。宙人だって、その子とは、ほとんど喋ったこともないのだ。気になっていたのは、「顔が可愛いから」 というのが大きな理由の一つであったことは間違いない。
 ああいう可愛い子と付き合えたら、きっと楽しいだろう。あんなに可愛いのだから、性格だっていい筈だ。一緒に連れ歩いたら、周りにだって、自慢できる。
 そこにあるのはただ、自分勝手な思い込みと、強い自意識の裏返しではなかったか──
「……俺はさ、付き合ってる彼女のことが好きで好きでたまんなくて、好きすぎて時々不安になるくらい大好きなんだよ。あのひとは確かに俺の幼馴染だけど、俺はずっと子供の頃から、彼女を一人の女の子として恋してた。今だって、キスだけじゃ足りなくて、あわよくば彼女と深い仲になりたいなって虎視眈々と機会を窺うような下心もちゃんと持ち合わせてる。だから、とてもじゃないけど他の女の子には目を向ける気にはなれないし、ならない。判った?」
 ここに至って、ようやくのように宙人は気づいた。
 普段、あれだけ 「キョーカちゃんキョーカちゃん」 と名前を連呼する拓海が、ずっと最初から、「彼女」 とか、「あのひと」 なんていう言い方で通している。
 ──それはまるで、そうすることによって、鏡花さんという存在を曖昧にぼかして、向けられる嫉妬や悪意から、少しでも彼女を守ろうとでもしているかのようだ。
 女の子は、口の端を歪めて、悔しそうな、泣きそうな顔をしていたが、不意に、くるりと踵を返して、廊下の向こう側に走り去っていってしまった。
 同時に、自分の淡い淡い恋心も、その時一緒に消えてしまったことを、宙人は知った。
 もしかするとそれは、あの女の子と同じで、「恋」 と呼ぶには未熟すぎる感情だったかもしれないけれど。


          ***


 それから数日して、放課後に委員会の仕事で校舎内を歩いていた宙人は、またまた偶然にも、廊下の窓から拓海を見かけた。どうやらこのところの自分は、とことんこういう役回りであるらしい。
 その時の拓海は、自分の教室ではなく、二年生のとあるクラスの教室にいて、ストレートのさらりとした髪を背中まで伸ばした女子と、窓際の席で向かい合って座り、お喋りをしているところだった。
 ──鏡花さんだ。
 と、宙人は思う。相変わらず、何を考えているのかよく判らない無表情で、右手にシャーペンを持ちながら、拓海の話に相槌を打っている。なかなかの美人ではあるのだが、可愛さや華やかさ、という点では、先日の女の子のほうが勝っているかもしれない。表情が変わらないというのは、どうしても、冷たいように見えてしまうのだ。
 どうやら鏡花さんは、拓海に勉強を教えている最中らしい。二人が挟んでいる机の上には、自分にも見覚えのある教科書やノートが広げられていた。そういえば鏡花さんは、拓海よりも余程頭の出来がいいらしい、という話を以前聞いたことがあったっけ。
 しかし鏡花さんが教えようとするそばから、拓海がちょっかいをかけたり、話を始めたり、彼女の髪の毛に触れてみたりしているものだから、勉強はちっとも進まないようだ。それが人に教わっている態度かと、多分自分だったらキレているところだが、鏡花さんは怒りもせず、頷いたり返事をしたり、几帳面にその相手をしては、また教科書に目を戻す、ということを繰り返している。陽介とは違って、随分と心の広い人なのだろう。
 物静かな鏡花さんとは対照的に、拓海はやけに楽しそうに、喋ったり笑ったりしている。この顔を見たら、さすがにあの女の子も、「あの人と一緒にいて楽しいの?」 などとは言わないんじゃないかなあ、と宙人は思う。鏡花さんは、確かにさほど楽しそうには見えないけど。
 ……と、そんなことを思った時。
 拓海が手を口に当てて、まるで内緒話をするみたいにして、鏡花さんに何かを言った。 
 どんな内容だったのか、拓海の顔を見返した鏡花さんは、二、三度瞬きをして、それから──
 
 ふわりと、笑った。
 
 声を立てて笑ったわけではないけれど、まるで硬い蕾が綻ぶようなその笑顔は、がらりと彼女の印象が変わってしまうくらい、綺麗で、そして、可愛かった。
「………………」
 思わず宙人が一瞬見惚れたくらいなのだから、拓海が言葉を途切らせてしまったのは、無理もない。
 拓海の手が鏡花さんの首の後ろに伸びて、ゆっくりと、自分の方へと引き寄せる。鏡花さんは軽く身じろぎをしたけれど、大人しくそれに従った。
 二人の唇が重ねられる前に、その場から大慌てで逃げ出しながら、
「あー、俺も恋がしたい……」
 なんてことを、こっそりと呟く、宙人十六歳であった。



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