月の花

ACT8.チャリに乗ってGO




 鏡花は運動神経がそれほど悪い方ではないのだが、ただ、自転車にだけは、どうしても乗れないらしい。

 ──と、いうことを、拓海は 「今朝の登校途中の何気ないお喋りの中で知った」 のだそうだ。
 始業前の教室で、それを宙人と陽介に向かって言った時の拓海は、目尻を極限まで緩めて、せっかくの整った顔立ちを台無しにしていた。
「もうさあ、キョーカちゃんて、勉強でも料理でも、大概何でもそつなくこなすけど、たまーにそういうところがあったりして、それ聞いて俺もう可愛くて可愛くて可愛くて、あやうく学校に辿り着く前に悶え死にするところだった」
「陽介、数学の宿題やってきた?」
「やってきたに決まっているが、ノートは見せないぞ」
 友人二人にあからさまに無視されているにも関わらず、拓海のくだらない惚気は留まることを知らない。
「よくよく聞いてみたらさ、『どうしても構造的にあんなのが走るのが納得できなくて』 とか、ぼそぼそ照れくさそうに言うんだよ。それで結局、補助輪付きのやつは別にして、自転車にはこの年齢になるまで一度も乗って走ったことがないんだってさ。ねえねえ、もー、本気で可愛くねえ? 可愛いだろ? 可愛いよ!」
 自分で言っているうちに、感極まったのか、机をばんばんと叩いている。
「………………」
「………………」
 うぜえ……という感想がありありの友人達のうちの片割れに、拓海はくるりと満面の笑顔を向けた。
「そんなわけで、チュー太君は、自転車通学だよね?」
「はあ……? それが、何か?」
 何がそんなわけなのかさっぱり判らないが、とりあえずヤな予感だけははっきりと覚えつつ宙人が訊ねると、けろりとした顔と声音が返ってきた。
「今日の帰り、自転車貸して」
「はあ?」
 今度のその言葉はちょっとトーンが上がった。しかし、拓海はまったく気にもとめていない。
「だって、うちにある俺の自転車、後ろに座席付いてないから、二人乗り出来ないんだもん」
「何がどう 『だって』 なんだか全っ然わかんねえし。大体、お前に自転車を貸したら、俺は今日どうやって家に帰るんだよ」
「バスに乗って帰ればいいじゃん。バス代は出すからさ」
「お、お前とゆー奴は……。絶対いやだ」
 拓海の超身勝手な提案を、宙人は断固とした口調で撥ね退けたが、相手のにこにこした顔は微塵も揺るがなかった。なんか怖い。
「──俺、この間、チュー太君が本屋にいるのを見かけたんだけどね」
 突然話題が変わったことに戸惑いつつも、宙人は怪訝そうに眉を寄せる。
「あ? いつだよ、声掛ければよかったのに」
「いやーだって、なんか、人に見つかりたくなさそうだったし」
「は、あ……?」
「まあ、俺だって、『あーゆー本』 買うところはやっぱり見られたくないかなあと思うからさ、陰ながらそっと見守ってあげたんだ。ああいう時って、二、三冊は関係ない雑誌とか買って、間に挟んでレジに出したりして、努力が涙ぐましいってゆーか。うん、判る判る」
「…………。おい、拓海……」
「別によくあることだよねチュー太君。男の子だもんね。だからこの場で、あの本のちょっとえげつないタイトルとか、大声で叫んでも特に問題ないかもし」
「拓海いっっ!!」
 傍でその遣り取りを聞いていた陽介は、ふー……と深い溜め息をつきながら、頭を横に何度か振った。
 今度から、本屋に入る時は、ちゃんと周囲を確認しよう。


          ***


 と、そんな次第で。
 放課後、自転車に乗って校門前で待ち構えていた上機嫌な拓海を見て、鏡花は表情を変えないまま、石になった。
「じゃあ、帰ろうか、キョーカちゃん」
「……うん。また明日ね、拓海」
 答えながら、なにげない振りをして、拓海の周囲を大回りして校門を通り抜けようとした鏡花の前に、自転車が見事なハンドル捌きで素早く回り込んでくる。
「何言ってんのかな。もちろん、一緒に帰るんだよ。乗せていってあげるから」
「……いい」
 いつもと変わらない表情をそこはかとなく強張らせ、ずずずと足を引き摺るように一歩後ずさってそう口にした言葉は、当然ながら、「辞退します」 という意味であったのだが、「だよね。いいよね、恋人同士の二人乗り」 と、完全に逆の意味に受け取られた。拓海はすっかり浮かれているが、鏡花は困惑する一方だ。
「二人乗り、禁止されてるし」
「見つかったら、俺がちゃんと謝るよ」
「家まで自転車で行くと、時間が掛かるし」
「ほんの四十分くらいで着くって、大丈夫」
 四十分間も、コレに乗らなければならないのかと思うと、血の気が引いてくる。
「私、重いし」
 さすがにその言い訳は恥ずかしくて、俯きながらもごもごと口の中で呟くようにして言うと、拓海は笑みを深めた。
 そして、片方の手が伸びてきたと思ったら、あっという間に腰に回され、そのままふわりと抱え上げられた。器用なことに、拓海自身は自転車に跨って、片足は地面、片足はペダルに乗せたままという不安定な態勢でだ。
 両足が宙に浮いた状態で、鏡花の頭はパニックになりそうだったが、ここで暴れたら拓海もろともひっくり返る、ということくらいは推測できて、かちんと固まっているしかない。
 拓海はまた優しい動作で鏡花を下に降ろすと、笑いながら請け負った。
「ほら、キョーカちゃんは全然軽いよ。羽根みたいだ。なんだったら、お姫様抱っこでも、おんぶでもして、証明しようか? 今、すぐ」
「………………」
 ふるふるふると首を横に振る。拓海の場合、本気でやりかねないと思ったからなのだが、彼はそれを見て、にっこりと綺麗に笑った。
 その笑顔は、非常に華があって可愛くて、その上、有無を言わせない迫力がある。
「だったら、ホラ早く、後ろに乗って」
「………………」
 結局、何がなんだか判らないまま、鏡花はその日、拓海と一緒に自転車に乗って帰宅することになった。


 じゃあ、しっかり掴まってね、と拓海は笑顔で言って、鏡花の両手を自分の腰に廻させた。制服のスカート姿なので、やむを得ず横座りして後ろの座席に乗ったが、ふらふらと落ち着かず、止まっている時点でもう怖い。大体、こんな形状をした得体の知れない乗り物が、どうして人間を乗せて走れるのか、そこからして理解できないから怖いのだ。ましてや二人乗りなんて。
 その恐怖心で、鏡花はひしっと拓海にしがみつく格好になった。その途端、拓海の口から 「あー、いいなあ」 と、何かに感激しているような声が漏れたが、その意味を深く考えるような心の余裕もない。
「いい? じゃ、行くよ」
 掛け声と共に、拓海の両足がそれぞれペダルに掛かり、自転車が動き始める。
 まるでふらつきもせず、よろけもせず、自転車は滑らかに走り出したが、鏡花が想像していたよりもずっとスピードが速くて、目が廻りそうだ。
「どおー? キョーカちゃん、気持ちいい?」
「こわい」
 前方からの楽しげな声に応えた返事は、心の底から正直で率直なものだったのに、拓海は 「そっかー」 と笑うと、更にペダルを漕ぐスピードを速めたようだった。どうして今日は、こうも会話が噛み合わないのだろう、と混乱しながら、とにかく座席から落ちないように、必死になって目の前の背中に強く自分の身体を押し付ける。
「……気持ちいいなあ〜……」
 という、拓海の呟きが聞こえた。
 それは多分、頬に当たったり、髪をそよがせる、この風のことを言っているのだろうと思うのだが、生憎と鏡花はそれを気持ちいいと思えるほどのゆとりもない。そうやって風を感じて、流れる景色にもゆっくりと目をやることが出来たなら、きっと自分も少しは楽しいと思えるのかもしれないのだけれど。
 でも、しばらくしたら、さすがにスピードは多少、緩くなった。怖いことには変わりはないが、今までの速さよりは随分とマシになったように思えて、鏡花はほっと息をつく。少しは慣れてきたのか、周囲に目をやることにさほど苦もなくなってきていた。
 がちがちに緊張した身体からようやく力を抜いて、大きく息を吐いたら、

「──キョーカちゃん、自転車、乗れないままだったんだね」

 不意に、ぽつりと拓海に話しかけられた。顔は前方を向いているので、それがどんな表情で言われたものなのかは判らない。
「え?」
 速度がゆるやかになったので、なんとか普通の会話も出来そうだ。それを見計らってか、拓海は前を向いたまま、話を続けた。
「ちっちゃい頃からさ、キョーカちゃん、自転車乗れなかったじゃん。けど、高校生になるまでそのままだったとは思ってなかったから」
「うん……そうだね」
 鏡花が最初に自転車を親に買ってもらったのは、幼稚園の時だ。最初のうちは補助輪が付いていたのでなんとか乗れたが、小学校に入って、それを外した途端乗れなくなった。鏡花はどうも、まず頭で考えて納得してから物事を始める傾向があるらしい。どうしてもあの細い車輪だけで人体を支えてなおかつ前に進む、という理屈が受け入れられなくて駄目だったのだ。
「練習も、何回かしてみたんだけど、やっぱりどうやっても駄目で。小学校でも、高学年になってからは、もううちには私の自転車もなかったんだよ。そうか、拓海とは中学を卒業するまで、あんまり話もしなかったから、知らなかったんだね」
「…………ん」
 拓海の返事は、聞こえるか聞こえないかというくらいの、小さな声だった。
 そのことは話したくないのかなと悟って、鏡花は内容を変えることにする。そういえば、あまり接触のなかった小学校高学年から、中学三年生までのことは、拓海はあまり話題にしたがらない。
「拓海も、小さい頃、あんまり自転車に乗らなかったよね。もしかして、私に気を遣ってくれてたの?」
 妹の雪菜も含め、しょっちゅう一緒に遊んでいた当時、拓海はずっと早いうちからすいすい乗れたにも関わらず、鏡花に付き合ってか、少し遠い場所に行く時でも、決して自転車を使おうとはしなかった。真ん中に小さな雪菜を挟んで手を繋ぎ、三人でてこてこと歩いていたんだったなと、懐かしく昔を思い出す。
「……俺さあ、子供の時、背え低かったじゃん。キョーカちゃんよりも」
「え? あ、うん、そうだったかな」
 ぼそりと言われた台詞は、やけに唐突なものに思えたが、鏡花は頷いた。
 確かに幼い拓海は、鏡花よりも頭ひとつ分くらい小さかった。とはいえ、目立って背が低かったわけでもない筈だ。鏡花の方が大きかったのは、そもそも一つ年上だということもあるし、子供の頃は女の子の方が発育がよかったりするものだからだろう。ちなみに、その身長差は今ではまったく逆になっている。
「力もないしね、キョーカちゃんを後ろに乗せてあげたくても、無理だったんだよ」
「それは、そうかもね」
 拓海の言いたいことが今ひとつ判らないが、もう一度頷く。別に拓海でなくても、子供同士の二人乗りというのは、かなり難しいものがあると思う。大体、大人に見つかったらこっぴどく叱られそうだ。
「それが結構、悔しくて。だから、キョーカちゃんと一緒の時は、自転車には乗らなかった」
「…………?」
 なんだかやっぱり、よく判らない。
 それきり黙ってしまった背中に、拓海? と呼びかけようとしたら、今までスピードが落ちかけていたのに、再び、拓海がペダルを思い切り漕ぎ始めた。驚いて、思わず身を縮める。

「──俺、こういうのが夢だったんだ」

 拓海が何かを言ったらしいとは判ったのだけれど、早まっていく車輪の回転の方にすっかり気をとられていた鏡花には、その内容までは聞き取れなかった。
「何か言った? 拓海」
 と訊ねても、なんでもない、と笑いながら返事があるだけだ。
「…………?」
 少し不思議に思いながら、それでもそれ以上の追求はせず、鏡花は拓海の腰に廻した腕にぎゅっと力を込めた。
 自転車はぐんぐんとスピードを上げていく。
 そのことに、内心では相当冷や冷やして、けれど、すごい勢いで流れていく景色は最初の頃よりも確かに楽しく感じられて、脇を通り抜けていく涼しい風はちょっと気持ちもよくて、いつの間にか広く逞しくなった背中にひどく安心もして、鏡花は胸の内で、自転車って悪くないかも、と現金にも思い始めていた。



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