月の花

Finale.海に映る月・月に咲く花(1)




 混ぜご飯とお吸い物、肉じゃが、グラタン、アボカドサラダ、デザートに杏仁豆腐。
 ──この珍妙な取り合わせが、本日の鏡花の家での夕飯である。

「こんなの一緒に食べて、お腹を壊さないかな……」
 すべての調理を担当した鏡花が心配げに言ったが、同じ食卓についている妹の雪菜と拓海は、既に料理に箸をつけながら、声を揃えて、「へーきへーき」 と陽気に太鼓判を押した。
 いつものごとく両親不在のこの家で、姉妹の夕餉のお相伴にあずかっている拓海が、まだ眉を曇らせている鏡花に、天真爛漫なにっこりとした笑顔を向ける。
「大丈夫、どれもこれも、すげえ美味いよ。キョーカちゃんは本当、料理上手だよね」
 そういう問題ではないのだが。
「それに大体、お姉ちゃんの作ったご飯でお腹を壊して死んでも、拓ちゃんは本望だからいいのよ」
 そういう問題でも、ないのだが。
 そもそもこんな変ちくりんなメニューを考えたのは、もちろん鏡花ではない。和食が食べたいと言う拓海と、絶対洋食がいいと言い張る雪菜の、それぞれのリクエストに合わせたら、こういうことになってしまったのだ。
 お互いに自分の意思を断固として曲げようとしなかった拓海と雪菜だが、今目の前にいる二人は、出されたものを片っ端から、旺盛な食欲でもりもりと平らげている。これなら別に、和食洋食で揉めなくてもよかったんじゃ……? と、鏡花は内心で首を傾げざるを得ない。
「いやー、こうして親子三人でメシ食ってるとさあ」
 拓海が肉じゃがをもぐもぐと食べながら、しみじみとした声音で言った。
「ちょっと待って、この場合の 『子供』 って、まさかあたしのことじゃないでしょうね」
 と、すぐさま差し挟まれた雪菜の異議申し立ては、完全に無視である。
「なんてゆーか、幸せだなあって思うよね。一日の疲れが癒されるっつーか。明日も頑張ろう、っていう前向きな気持ちになれるっつーか」
「なに親父くさいこと言ってんの? それに一日の疲れったって、拓ちゃんは今日、普通に学校行って、普通にのんべんだらりと授業を受けただけでしょ」
「お前こそ何言ってんだよ、今日の俺らの体育なんだったと思う。マラソンだぞ。しかも一時間、ほとんどまるまる走らされたんだぞ。このクソ寒いのに、死ぬっつーの」
「ああ、マラソン……。私達も、一年生の時やらされた。男子は距離が長くて大変だよね」
 思い出したように鏡花が言うと、拓海はよくぞ言ってくれましたというように、深々と頷いた。頷きついでに、「キョーカちゃん、おかわり」 と空になった茶碗を差し出す。ずっと喋っているのに、どうしてみるみるうちに食べ物が減っていくのだろう、と不思議に思いながら、鏡花は彼の茶碗にご飯をよそった。ちなみに鏡花は、あんまり喋っていないにも関わらず、まだ三分の一くらいしか口をつけていない。
「そうなんだ、大変なんだよ。俺さあ、瞬発力は割りとあるんだけど、持久力はあんまし、ないんだよね」
「いかにも、って感じよね」
 雪菜がそう言ってせせら笑った。拓海は少しむっとしたらしく、何かを言い返しかけたが、なぜか鏡花をちらりと見て、思い直したように口を噤み、話の方向を戻した。
「その点、キョーカちゃんはコツコツと真面目に走りそうだね。あ、でも、和葉さんなんかもああいうの、キライなんじゃない? いかにも不平たらたらで走りそう」
「和葉は、マラソンの時は毎回、風邪を引いて休んでた」
「……うん、聞いた俺が馬鹿だったよ」
 むくれた顔になって、拓海が箸で摘んだご飯の大きな塊を、ぱくりと口に放り込む。さっきよそったばかりなのに、彼の茶碗には、もう残りが半分くらいしかない。拓海はけっこう細身のほうだが、見ていて気持ちがいいくらいよく食べるし、早い。それとも、高校生の男の子というのは、みんなこういうものなのだろうか。
 感心しながらその様子を見ていると、拓海がなにげなく鏡花の方を向いたので、視線がかち合った。
 合った途端、拓海が目を細めてにこりと笑う。
「………………」
 その笑い方は、普段の茶目っ気を含んだものではなく、かといって他の人たちに向けるそつのない愛想笑いでもない。とても自然で、優しくて、少し大人びてもいる、鏡花の前でしか見せない笑顔だ。不意打ちに合った鏡花はぱっと頬を染めた。
 ──どうして、こんなことで、と自分でもうろたえる。
 と、唐突に、二人の視線の中間点に、ずいっと手の平が割り込んできた。
「……なんか、面白くないんだけど」
 その手をひらひらさせながら、ぶすっとした声でそう言ったのは雪菜である。拓海は眉を寄せて、雪菜に顔を向けた。
「お前ね、ただでさえ、いつもいつもいつも、俺達がいい雰囲気でいるところを邪魔してくるくせに、恋人同士の愛の語らいまで妨害すんなよな」
「語らってないし。あたしの耳には何も聞こえなかったもん」
「俺とキョーカちゃんにしか聞こえないんです、残念でした。キョーカちゃん、おかわり」
「ちょっと何杯目?! 少しは遠慮しなさいよね!」
「俺の辞書に遠慮って文字はない」
「なに威張ってんのよ! てゆーか、お父さんとお母さんの食べる分がなくなっちゃうでしょー?!」
 ぎゃんぎゃんと雪菜と言い合う拓海の手から茶碗を受け取り、鏡花はそこにまたご飯をよそった。よそいながら、もっと大きい茶碗を用意したほうがいいのかなあ、と悩む。どんぶりを使う、というのもあんまりな気がするが、とはいえこのお客様用の茶碗では、どう考えてもやはり小さいらしい。でも、「拓海専用の茶碗」 を買うというのも、それはそれで少し変な気がするし。
 そこまで悩んでから、ふと気づく。なんだか──随分、馬鹿馬鹿しいことを本気で悩んでいるような。
 くすっと笑った。

 幸せだなあって思うよね。

 先ほどの拓海の台詞を思い出し、心の中だけでひそかに頷く。
 そうだね。私も、そう思う。


          ***


 鏡花の家で夕飯を食べていく場合、拓海が自宅に帰るのは、大体いつも夜の九時頃になる。それは、お互いの親も了承済みだ。特に鏡花の母などは、若い娘を二人だけで置いておくよりもよっぽど安心できる、と喜んでいるくらいである。幼馴染という肩書きは、こういう所で効力を発揮するらしい。
 帰る拓海を見送るため、鏡花は彼と一緒に家を出た。空はもう真っ暗だが、玄関の照明と道路の街灯で、その辺りは薄っすらと明るい。
 二人で並んで数歩歩き、家の門前まで出たところで、
「今日は寒いから、ここでいいよ」
 と、拓海に止められた。
「……でも」
 鏡花は拓海の顔を見て、それから三軒先にある拓海の家に視線を移す。
 いつもは、彼とのんびりお喋りしながら、普通に歩いたら一分くらいのその距離を、時間を掛けて歩くのだ (その合間に、まあちょっと、恋人同士の色々があったりすることもある)。拓海の家に着いたら、今度は彼がまた鏡花の家まで送ってくれるので、確かに、実質の意味はない。ここで別れても、結果としては同じだ。けれど、それでもその短い往復路は、自分たちにとって、貴重で楽しい時間には違いなかった。
 なのに、今日はここでさよならなのか──と思うと、ひどく寂しい気がして、鏡花はなかなか自分から、「じゃあ、明日ね」 という言葉を言い出せない。
 その内心を読んだようなタイミングで、拓海が悪戯っぽい表情で鏡花の顔を覗き込んだ。
「寂しい?」
 と笑いながら訊ねる。
「………………」
 以前の鏡花だったら、自分の内心はどうあれ、拓海を家に帰すことを優先させていたかもしれない。風が冷たくて、凍えそうなほど厳しい寒さの中、いつまでもこんな場所に引き止めてはいけないと思っただろう。
 けれど、鏡花はその問いに首を横に振ることが出来なかった。
「……うん」
 素直に頷いたら、更に相好を崩した拓海に、いきなり抱き締められた。近頃の拓海は突然こういうことをするので、鏡花はそのたび心臓がひっくり返りそうになる。
 けれど、温かい体温と、ふんわりとした彼の匂いに包まれるのは気持ちよく、静かに息を吐きながら自分もそろそろと手をその背に廻し、彼が着ているダウンジャケットをぎゅっと握った。
 ああ──と、もう一度、深い息をついた。
 ほっとする。
 最近の鏡花は、自分でも不思議なほど、拓海が近くにいると安心してしまう。離れていると、自分の中のどこかが空洞になるような気さえする。拓海の友人や雪菜などは、拓海のことをワガママだと言うけれど、今、彼に甘えて、言葉にはしなくても、「ここにいて」 というワガママを聞いてもらっているのは鏡花の方だ。自分がそんな風になるなんて、以前までは、想像したこともなかったのに。
 それが良いことなのか、それともそうでないのかは、自分では判断出来ない。
 拓海の肩に押し付けていた自分の顔に、手が近付いてきた。長い指が頬に添えられ、そのまま軽く上を向けさせられる。
 端整な顔が間近まで寄せられて、鏡花はそっと瞼を下ろす。今までに、何度こうして、この柔らかい感触を唇に受けただろう。その愛情の証を貰って、満たされている自分が、間違いなくここにいる。
 拓海は、鏡花の唇に自分のそれを押し当てるようにしてくっつけたあと、またゆっくりと離し、
「……ね、キョーカちゃん」
 と、静かな声で名を呼んだ。
 まだ、息遣いがはっきりと感じ取れるほど近い場所だったので、そのことに少々とりのぼせてしまい、鏡花はその声音の中に、わずかだけれど硬い調子が混じっていることに気づかなかった。
 うん、と頬を染めながら目を開けて、返事をする。
 拓海は、口許には微笑を浮かべていたけれど、瞳だけは真面目な色を湛えていた。
「──キョーカちゃん、俺に隠してることとか、ない?」
「え……?」
 唐突な質問に困惑して問い返したが、拓海は無言でこちらをじっと見返してくるだけだった。怒っている、というようには見えないものの、何かの軽口を言っているわけでもないようだ。
 鏡花は瞳を瞬いてから、少し考えて、口を開いた。
「隠していることはないと思うよ、多分」
 その答えは、拓海にはやや不満だったらしい。浮かべていた微笑を引っ込める。
「…………。なんで、そんな曖昧なの?」
 問われて、鏡花はまた考えた。今度は、自分の中にあるものを、どう言葉に変換すればいいのか、ということだ。鏡花は、思ったことを相手にすぐに伝えるのが得手ではない。
「意図的に隠してることはないけど、毎日あったことの全部を拓海に話しているわけじゃないし、わざわざ言う必要がないことかなと思ったら、言わないでいることもある。そういうのを、『隠してる』 って言われたら、そうなのかもしれないから」
「………………」
 鏡花の言葉に、拓海は口を噤み、非常に渋い表情になった。どうやらその答えも、彼の意に沿うものではなかったらしいが、鏡花にしてみたら他に言いようがないので、訂正する気にはならない。
 拓海の問いかけの真意は判らなくても、それが彼にとって大事なことであるくらいは判る。この状況で、誤魔化すような言い方は、出来るだけしたくなかった。
 拓海が、鏡花から少し身を離し、距離をとってから、今度は両手で肩を掴んで、覗き込む。何かを窺うような、そこにあるものを懸命に読み取ろうとするような、慎重な目の色をしていた。
「……その、『言う必要のないこと』 っていうのは、たとえば?」
「えーと、この間、和葉が拓海のことで」
「や、待って。それは確かに聞く必要がないみたい」
 少し慌てて遮った。「そういうことじゃなくて」 と続けて、それから、少し言いにくそうに口篭る。
 周囲が暗いからよく判らないのだが、一瞬、視線が頼りなく泳いだようにも見えた。
「……たとえば、さ」
「うん、たとえば?」
「たとえば、俺の──」
 言いかけて、再び、口を閉じる。ちょっとだけ無言の間があってから、
「ああ、もう、いいや」
 と、くしゃりと髪の毛をかき回し、一方的に強制終了させてしまった。
 もう一度鏡花の方へと向き直り、今度は真っ向から目を合わせる。
「キョーカちゃん、これだけは言っておくけど」
 強い口調だった。
「うん」
「何かあったら、俺に言ってね。絶対に」
「……うん」
 拓海の言う 「何か」 が、具体的に何を指しているのかよく判らなかったけれど、彼が真剣なのはひしひしと感じられて、鏡花も真っ直ぐその目を見返し、返事をした。
 しかしそれだけでも、拓海はホッとしたらしい。目許を和ませると、また改めて鏡花の身体に腕を廻し、抱き寄せた。
 キョーカちゃん、と囁いて、求めるようにもう一度顔が寄せられる。目を閉じて、自分の唇の上に落ちてきた彼のそれを、受け止めた。甘噛みされて、角度を変えて、何度も重ねられる。
 周囲は寒いけれど、胸は熱い。

(……言う必要がないから、言わないでいること)

 次第に深くなっていく口づけに思考の大半を委ねながら、鏡花の心のほんの一部がこっそりと呟いた。
 それは本当は、いろいろとあるのだけれど。
 ──たとえば、今の鏡花が。
 いつか拓海が離れていく日のことを、どれだけ怖れているのか、とか。
 ……その時、自分はちゃんと、「なんでもない顔」 をすることが出来るのだろうか、とか。

(拓海、最近の私はね)

 幸せだなあと思うたび、不安で堪らなくなってしまうんだよ。



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