月の花

Finale.海に映る月・月に咲く花(3)




「鏡花ちゃんと一緒にいても、つまんないんだもん」
 ──そう言われたのは、ずっと昔。

 鏡花の方を向いて、はっきりと言ったのは、つい昨日まで幼稚園の教室で、あるいは園庭で、仲良く遊んでいた女の子だった。
 何か、理由があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。そう言い切った時、女の子はけろりとした顔をしていて、きっと 「悪意」 と呼ぶようなものは、そこには全く存在していなかった。
 不意に思ったことを、何の気なしに口にする──そんなことは、このくらいの年頃の子供には、日常茶飯事と言っていいくらいよくあることだ。その証拠に、翌日にはその子はまるで何もなかったかのように、「鏡花ちゃん、遊ぼう」 と屈託なく声をかけてきた。
 ……でも、幼い鏡花を落ち込ませるのに、その一言は、充分すぎるほどの威力を持っていた。
 しょんぼりしながら幼稚園から家に帰り、鏡花はとぼとぼと近くの公園に向かった。この頃の母は専業主婦で家にいたが、妹の小さな雪菜がお昼寝の最中であったので、声だけかけて、一人で行った。
 誰もいない公園で、ブランコに揺られる。
 つまんない、と口の中で言われた言葉を繰り返したら、じわ、と視界が滲んだ。
 どうして、つまらない思いしかさせられないんだろう、と思う。他のみんなは、いつも楽しそうに喋って、冗談を言って、他の誰かを笑顔にさせることが、簡単に出来ているのに。どうして自分にはそれが出来ないんだろう。
 すん、と鼻をすすり上げたら、ぽつりと涙が瞳から落ちた。
「キョーカちゃん!」
 元気な声が背後から掛けられたのはその時で、驚いた鏡花は急いで目許の涙を拭って、振り返った。
「なんだよキョーカちゃん、公園に来るなら俺にも言ってくれればいいのに!」
 駆け寄ってきた拓海は、文句を言うように口を尖らせたが、目は笑っている。
「キョーカちゃんちに行ったら、おばさんが公園に行ったって言うからさあ。ブランコ、俺、押してあげようか。二人乗りもできるけど、キョーカちゃん怖いかなあ。あっ、それかさ、この間みたいに、山のてっぺんから──」
 張り切って次から次へと遊びの提案をする声を、「拓海」 と呼びかけて、中断させた。
「私と、遊んでくれるの?」
 問いかけると、彼は可愛らしい顔をきょとんとさせた。
「え? だから、遊ぼって、キョーカちゃんを呼びに行ったけど、公園に行ったって言うから……」
 拙い言葉遣いで続ける拓海は、鏡花の質問に、少し困惑しているようだった。けれど一生懸命、幼いなりに説明を試みようとするその姿には、どこにも、嘘はないように思えた。
「……けど、私と遊んでも、つまんないでしょう?」
 小さく小さく、呟くように鏡花は言った。声が震えそうになるのを、必死で堪える。
 拓海はそれを聞くと、さらにびっくりしたような顔をして、それから──それから、破顔した。
 目も口も、思いきり崩して、嬉しそうに、楽しそうに、そして優しく、にへっと笑った。
「つまんないわけないじゃん。俺、キョーカちゃんのこと、大好きだもん!」
 そう言って、笑った。
「………………」
 鏡花は両の手を、小さな拳にして強く握る。涙が、また零れないように。泣き出さないように、頑張って、頑張って、奥の乳歯をぎゅっと喰いしばった。表情も、変えないように。ここで泣いたら、拓海は心配して、その笑顔を引っ込めてしまうだろうから。
 だから。
 ──その笑顔が、その言葉が、どんなに自分の救いとなってくれたか、拓海はきっと、知らないままだ。



「拓海君、また彼女が代わったらしいよ」
 中三の時に友人となった子は、拓海の 「ファン」 だと言っていた。その頃、一学年下の拓海はもう、校内ではすっかり有名人になっていて、何かにつけて人目を引き、行動のいちいちが噂になるほどだった。
 ファンクラブ、みたいなものも出来ているらしかったが、その子達も、今こうして鏡花に話してくれている友人でさえ、鏡花が、その拓海の幼馴染であることを知らなかった。それくらい、二人の交流は皆無だったからだ。
 友人の言葉に、鏡花は、そう、と頷く。
「これで何人目?! 拓海君てさ、付き合って、って言われると、その時付き合ってる相手がいない限り、全部オッケーしちゃうんだって。よっぽどの女好きか、どうでもいいか、どっちかよね。ああー、あたしも受験生じゃなければ、申し込むのに!」
 憤慨しているのか、羨ましがっているのか、よく判らない。
 鏡花はそれにも、そう、と答えただけだった。
「あっ、見て見て、噂をすれば、あそこに拓海君と今カノがいる!」
 友人の興奮した声につられて、鏡花もそちらに目を向ける。かなり距離があるけれど、彼女が指差した方向には、確かに拓海と女の子が二人で歩いているのが見えた。拓海の隣にいるのは可愛い女の子で、笑いながらしきりと身振り手振りをつけて、途切れることなくお喋りを続けているようだった。
 拓海はそれに時々返事をしたり、頷いたりしている。鏡花たちがいるほうには顔を向けもしないから、気づくこともないだろう。
(……あ、笑った)
 拓海が隣の女の子と話しながら、ちょっと笑った。年齢が重なった分、それは昔の無邪気な笑い方とは少し違っているけれど。
 けれど、それを見て、鏡花もほんのりと笑みを零す。
 拓海が笑っているのを見ると、鏡花も嬉しくなってしまうのだ。ひどく、幸せな気持ちになる。昔と変わらず。隣にいるのが誰であっても。もう、その笑顔が自分には向かなくても。

 ──それは、私にとって、大事な大事な、宝物だから。



          ***


 玄関のドアを開けると、リビングから雪菜が頭を覗かせた。
「あっ、おかえりー。今日、遅かっ……」
 そのまま、言葉を飲み込んでしまった雪菜は、にこやかな顔を一変して厳しく引き締め、身体ごとリビングから出てきて、慎重にも見える動作でこちらに寄ってきた。
 鏡花はそんな雪菜に顔を向ける。いつもと同じ表情のはずなのに、どうして、妹はこんなにも瞳に心配そうな色をくっきりと浮かべているのだろう、と思った。
「……悪いんだけど、雪菜。私、ちょっと体調悪くて。夕飯、作れそうにないの」
 大丈夫、大丈夫。声だって、普段と変わらない。
 ──大丈夫。
「わかった。あたし、なんとかするから。お姉ちゃんは何も気にしなくていいよ」
 反問も追及も何もなく、雪菜からは、すぐさまきっぱりとしたそんな返事が返ってきた。うん、と頷いて、笑ったつもりだけれど、本当に、笑えているのだろうか。雪菜の眉が、こんなにも寄せられているのに。
「お姉ちゃんは、自分の部屋で休んでなさい。誰が来たって、通したりしないから、安心してね」
「……うん」
 命令調で言う雪菜の声は力強く、鏡花は呟くように返事をして、静かに息を吐いた。この妹は、いつもこうして自分を守ってくれる。昔から、頼もしい子だった。
 その妹に背中を見送られながら階段を上った。自分の部屋に入り、ドアを閉める。
 ベッドに腰掛け、ふ、ともう一度息を吐いた瞬間。
 ──ぼろぼろ、と一気に涙が落ちた。


 「彼女」 が鏡花に話しかけてきたのは、今日の朝のことだった。
 この時間になったら誰にも言わずに拓海の教室まで来て、と鏡花に指示した同級生は、そのあとで、
「面白いもの、見られるかもよ」
 と続けて、不敵に笑った。
 彼女に、拓海君と別れてよ、と言い渡されたのは、一週間ほど前のことだ。私からは離れるつもりはないんです、という鏡花の返事に、さっと怒りの表情を顔に乗せた彼女は、その時も、笑いながらやっぱり瞳には、ハッキリとした敵意をみなぎらせていた。
 鏡花だって、そこまで無知なわけでも、何も考えていないわけでもない。彼女にどんな意図があって、そういう要求を出してきたのか、その時点で、薄々は気がついていた。
 だから、言われたとおり拓海の教室まで向かう廊下の途中で、
「一回だけ、キスさせて」
 という彼女のひそやかな声が聞こえてきた時、鏡花の中では、驚きよりも、ああ、やっぱり──と、いう気持ちのほうが強かったくらいだった。
 彼女は、鏡花に打撃を負わせる方法として、そういうやり方を選んだのだと。
 そのまま向かおうかどうしようか躊躇して、それでもやっぱり、真っ直ぐ足を進めることにしたのは、ちゃんと最後まで見届けて、自分の立場で、彼女に対して言うべきことがあるなら言わなければ、と思ったこともあった。
 鏡花はもう、こういったことから逃げるのをやめたのだ。だったら、ここからも目を逸らせないでおこう、と。……けれど。
 けれど、本当のことを言えば。
 鏡花はその時、心の底で、思ってもいたのである。
 
 ……拓海は、断るだろうと。
 
 本当に、その時の鏡花は、どこまでも傲慢な人間だった。「拓海が他の誰かを好きになるのはしょうがない」 なんて、結局、口先だけのことに過ぎなかった。鏡花はいつの間にか、拓海の笑顔も、あの温かく優しい感触も、自分だけに向けられるものだと、すっかり信じてしまっていたのだ。
 けれど、その幻想は、現実の前に、あっさりと打ち砕かれた。
(拓海、避けなかった)
 いいや、避けなかった、ではない。拓海はあの時、自ら上体を傾けて、「了承」 の意思を明確にした。唇を寄せていったのは彼女のほうでも、拓海にはそれを受ける気持ちがちゃんとあった。
 そのことが、なにより鋭い剣となって、鏡花の心を一突きにしたのだ。彼女の思惑は成功した。あの場面は、これ以上ないくらいの打撃を、鏡花に与えた。
 拓海にとって、その行為は別に、鏡花が相手でなくても問題ないのだという事実を、目の前に突きつけられて。

(ひとは、離れていく)

 それは、鏡花には判っていたことだった。
 幼稚園の時のあの女の子も、中学の時の同級生達も、そして、昔の拓海も。みんなみんな、離れていった。
 つまんないから、と言われた。話しかけても返事が返ってこない。踵を返して走っていく、懐かしい後ろ姿。
 永遠、なんて言葉を誰より信じていないのは鏡花だった。続いていくものなんてないの。今日は一緒にいても、明日にはいなくなる。ひとは誰もが、鏡花から離れていく。ごめんね、楽しませることが出来なくて。だって私は、あなた達を喜ばせるすべを知らない。どうやったら笑ってもらえるのか、判らない。どんなに愛おしく思っても。
 ──こんな自分だから、ひとが離れていくのは、しょうがない。
 そう、思っていたはずだった。
 自分のことを好きだと言ってくれた拓海。それを嬉しくは思っても、鏡花はいつだって、そのことを頭から追い出したりはしなかった。いつかはまた、この子は自分から離れていくのだろうと。拓海はいずれ、自分以外の女の子を選ぶ日が来るのだろうと。中学の時のように、明るくてよく喋りよく笑う女の子が、隣に来るようになるのだろうと。
 時に不安な心を持て余しても、常に、そういう予防線を張っていた。
 その時になったら、鏡花は 「なんでもない顔」 をして、わかった、と答えるつもりだったのだ。いいよ、気にしないで、私は大丈夫だから──と。
 拓海が、鏡花のことを気にしなくてもいいように。
 拓海が、すぐに笑ってくれるように。
 離れた場所から、また、それを見られればいいと、思っていたはずだったのに。
(こんなに、苦しいなんて)
 考えてもいなかった。こんなにも、胸が抉られるように痛むなんて。どう努力しても、自分を腹立たしく思っても、涙は、一向に止まってはくれない。
 どうして。
「…………ふ……っ」
 拓海を困らせるつもりなんてなかった。怒っているのとも違う。ごめん、と言った彼の瞳は怖いほどに真剣だったけれど、謝って欲しかったわけでもない。ちがう、とも拓海は繰り返していた。でも──けど。
 それら諸々の全てを上回り、鏡花の心を支配したのは、たった一つの感情だった。
 嫌だ。
 嫌だ、嫌だ、と、しつこいくらい鏡花の中の何かが悲鳴を上げている。あんなところ、見たくはなかった。拓海に、他の女の子とあの温かさを共有して欲しくはなかった。涙なんて見せたくなかったのに、どうしても止まらなかったのは、あの時もその声だけが、がんがんと頭の中で響いていたからだ。
 永遠なんてない、誰もがみんな、いつかは離れていくのだと、頭では理解していても、鏡花の心はそれを理解することを突っ撥ねた。
(拓海──)
 以前まで、鏡花は確かに、拓海の笑顔を遠い場所から見ているだけでよかった。ただそれだけで、嬉しかったし幸せだった。
 でも、今の鏡花に、それは出来なかった。無理だった、どうしても。
 いちばん近くで、あの笑顔を見ていたかった。ずっと拓海の傍に、いたかった。他の人とキスなんてして欲しくないと、強く強く、思っていた。
(拓海、拓海)
 離れていかないで。

 いつの間に、私はこんなにも。

 ドン、と部屋のドアが外側から叩かれて、鏡花は泣きながらびくりと身を竦めた。
「……キョーカちゃん」
 聞こえてきたのは、拓海の低い声だ。
 それを聞いて、鏡花の混乱はより一層深まった。それは、聞きたかったけれど、今はなにより聞きたくない声だった。誰よりも会いたくて、誰よりも会いたくないひとだった。
 雪菜──誰も通さないって、言ってくれたのに。
「キョーカちゃん、入ってもいい?」
 その声は、低かったけれど、しっかりと落ち着いてもいた。形としては質問になっているものの、入る、という断固とした前提があった。ドアに、鍵はついていない。
 鏡花は慌てて自分の頬に手を当てた。そこはもう、乾いている場所がないくらいにびしょ濡れだ。懸命に手の平で拭ったけれど、それだけではとても間に合いそうにない。だって、今こうしている間にも、涙は瞳からぽろぽろと止め処もなく落ち続けている。
「……入るよ」
 ドアノブがゆっくりと、廻される。鏡花はうろたえた。こんな顔、見せられないし、見せたくない。さっきだって、精一杯頑張ったけれど、無理だった。今、拓海の前では、「なんでもない顔」 なんて、どうしても出来ない。いつものような無表情ではいられない。
 鏡花は口を開いた。涙声にならないように、強い口調で言い切る。
「だめ」
 ……それは、拓海に対する、はじめての拒絶の言葉だった。



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