月の花

Finale.海に映る月・月に咲く花(5)




「……で、結局許しちゃったわけね。まったく鏡花も甘いわねー」
 翌日になって、拓海と仲直りするに至った成り行きを話したら、和葉は呆れるようにそう言った。
「甘いとか、そういうことじゃないんだよ」
 首を傾げ、考えながら答える。鏡花にしてみれば、それは、許すとか許さないとか、甘いとか厳しいとかの問題ではないのだ。
 拓海は、鏡花と別れるのはいやだ、とはっきり言ってくれて、自分も、拓海と離れたくはなかった。話してくれた内容に驚きはあったけれど、鏡花はそれに納得もしたし、そんなことを今までずっと引き摺っていた拓海を、なによりいとしく感じた。これからも傍にいたいという意思だって、一方通行のものではなく、二人に共通したものでもあった。
 だから、今も、一緒にいる。
「和葉にも、いろいろと心配かけちゃったね。ごめんね。ありがとう」
 礼を言うと、和葉は少し苦笑めいたものを浮かべた。
「別にい〜。まあ、鏡花が拓海君と別れる決心をしたなら、なにがなんでも協力しようとは思ってたけど。……そういう意味ではちょっと残念よね、『拓海君排除計画』 も、けっこうアレコレ考えてたのに。それはこの先のお楽しみ、ってことね」
 そう言って、くくく……とものすごく楽しそうに笑う和葉の背後には、なんとなくどす黒いものが見えていたりするのだった。どんなことを考えていたのかは知らないけれど、妹と同様に、頼もしい友人である。拓海の見解は、またちょっと違うのかもしれないのだが。
「この先かあ……」
 鏡花は呟いて、窓の外に視線を移した。
 一限目のこの時間、教師不在の教室では、名目上 「自習」 ということになっているので、鏡花の机の上には、一応教科書やノートが広げられている。鏡花の前の席に強引に移ってきて、すっかり寛いでお喋りに専念している和葉の前にもある。しかし、そっち方面には二人して一瞥すらしないという有様なのは、たまたまこの時間、教科書よりももっと興味を引く対象が、窓の外にあるからだ。
 ──たとえばそれは、広い校庭の周囲を走らされている、ジャージ姿の生徒たち、なんてものだったり。
「何周するんだっけ? あれ」
 和葉が、同じ方向に目をやって訊ねてきた。今まで一回も真面目に走ったことのない彼女は、さっきから、「ご苦労さんねー」 と完全に他人事で感心している。
「男子は、十周かな」
 鏡花の答えに、和葉が舌を出し、うえ、という顔をした。
 毎年、一年の冬にやらされる 「マラソン」 は、一周四百メートルのトラックは使わない。校庭の周囲を走らされ、その分、距離がかなり長い。ゆっくり走ってもいい、ということにはなっているのだが、確かにきついだろうなとは思う。
 寒風吹きすさぶ中、一年生たちは、あからさまに渋々といった表情で走っているのが大半だ。その集団の中に、ひときわペースの遅い三人組の男の子達の姿があった。どうやら、彼らは固まって、走りながらずっと何かを熱心に話しているらしい。遅くたって決められた距離は走らなければいけないので、この調子では、授業時間が終わっても走り続けることになるかもしれない。
「たるんどるねえ、あの子達は」
 和葉の声はとっても偉そうである。もう一度言うが、彼女自身は一年生の時、マラソンには一回も参加していない。
 三人は、何事かをずっと口を動かして話し続けている。……あちらはあちらで、今の自分のように、友人たちに事の次第を話しているのだろうか。昨日あった、いろいろなこと。
 話したこと、知ったこと、考えたこと。
 彼らを眺めていた鏡花は、ふいに口を開いて、ぽつりと独り言のように、言葉を落とした。
「……私ね、今までずっと、自分のこと、あんまり好きじゃなかった」
 感情表現が苦手で、口下手で、人付き合いも上手に出来ない自分。嬉しかったり楽しかったりしても、それを判りやすく表に出すことが出来ず、そういう態度が、人を不快な気分にさせてしまう。
 怒ったり、憎んだり、恨んだりという、人間ならばあって当然の負の感情も、鏡花にはいつもよく判らなかった。自分が抱くことがないから、他人のそれも、自分に向けられるものも、戸惑うばかりだった。そういう複雑な感情を察することも理解することもできない自分は、人として、大きな欠陥があるのではないかと思ったこともある。
 けれど思うばかりで、変わることもできない自分自身が、鏡花は、あまり好きではなかった。
「へー。あたしは、鏡花ほど面白い子はいないと思うから、好きだけどね」
 和葉が、ちらりとこちらを見てから、素っ気ない口調で言った。この友人は、ちょっと判りにくいけれど、とても優しい (ところもある) のだ。鏡花はわずかに微笑んだ。
「ありがとう。──けどね、最近少しだけ、私も、自分のことが好きになってきた、ような気がするの。ワガママを言ったり、ヤキモチを焼いたり、思いっきり泣いたり、辛かったり苦しかったり、自分の中に、イヤなところも、醜いところも、たくさんあるんだって判ったりもして」
「……普通、そこで、『そういう自分が嫌いになった』 って方向に進むんだけどねえ」
 和葉はしみじみとした顔つきになってそう言うと、にやりと笑った。
「拓海君がよく、『キョーカちゃんは思考が時々変なんだ』 って言うけど、そういうことなわけね。『でも、そういうとこが好きなんだ』 って、言ってもいたけどね。あたしも同感」
「変かな……。でも、拓海が好きだって言ってくれるのなら、変でもいいかな。これからも、拓海に、好きだって思ってもらえるような自分であれたらいいな、とは、思ってる」
「はいはい、ゴチソウさま」
 和葉はすっかり投げやりになってそう言うと、また視線を校庭の方へ飛ばしてしまった。鏡花もまた、そちらに目を戻す。
 のたのたと走りながら、何事かをごそごそと話し合っている三人のうちの、一人の男の子。
 彼を見る時に、心の中にじんわりと灯る温かさは、名前をつければ、「恋心」 と呼ぶべきものだろう。それがどんなものなのか、鏡花はずっと、よく判っていなかったのだけれども。


   ……海に映る月のようだ、と鏡花は思う。


 好き、と思う気持ちに、実体はないのかもしれない。一緒にいたいと思ったり、笑顔が見たいと思ったり、他愛ない一言でひどく幸福になってしまったり。変わる 「何か」 は間違いなくあるけれど、確固としたものは誰にも掴めない。
 眺めれば、そこに美しいものがあることは判っていて、心を癒されもするけれど、手を伸ばしてみたって何もない。近付きすぎれば、形が壊れて歪んでしまうこともある。見ている分には、あんなにも綺麗だったのに。
 ──けど、遠くから見ているだけでは、やっぱり、つまらないのだ。
 水を掻き分け、波に押されて、足許を取られながら進んでいけば、そこには確かに輝きがある。見上げれば、眩しいものがある。自分を照らす、光がある。
 鏡花はただ、自分に降り注ぐ、その明るさと優しさに恥じないような自分でありたいと思う。そう思える自分を、好きにもなりかけている。それはとても、たいせつなことであるような気もする。
 これから先のことは判らないけれど、少なくとも、今の鏡花には未来のことを怖れるような気持ちはない。何か問題が起きたなら、拓海と一緒に、それを乗り越えられればいいと思う。お互いに、判り合って、気づく努力をしていければいいなと思う。
 そうやって、これからも続いていけたならいいな、と、本当にそう思う。


 その時、顔を上げて空を見ていた男の子が、ふと、こちらを向いた。
 その途端、ここからでもはっきりと見て取れるくらいに、ぱあっと笑顔になって、大きく手を振った。口許に両手を添えて、おそらく 「キョーカちゃーん!」 と叫ぼうとしたらしいのだが、それは二人の友人たちによって、頭を押さえ込まれて阻止された。
「……バカよねー、拓海君」
 呆れ半分感心半分、といった調子で和葉が呟くのを耳にして、鏡花は堪らなくなって、くすくす笑い出してしまう。
 彼の笑顔は真っ直ぐに自分に向いていて、鏡花はそのことがこんなにも嬉しい。もう見ているだけでは満足できない自分は、昔よりも随分と欲深くなったのだなと思うけれど、鏡花はそれを自分自身に許すつもりでいる。
 拓海の笑顔が自分に向けられるから、幸せなのだ。
 幸せだなあと心の中で反芻しても、もう、不安はどこにも湧いてはこなかった。


          ***


 どう考えても、他の生徒たちの進路妨害をしているとしか思えないようなのろのろとしたペースで走り続ける三人組に、グラウンドに立っている体育教師は厳しい眼を投げつけていたが、拓海も陽介も宙人も、まったく気にしないで会話を続けていた。マラソンよりも優先させるべきことが、若人にはたくさんあるのだ。
「……そんで俺、キョーカちゃんへの愛がますます深まって、なんか抑えきれなくなっちゃってさあ、こうなったらもうこのまま押し倒して最後までいっちゃおうかなあ、なんて思って」
 と、こちらはこちらで昨日の顛末を説明していた拓海だが、そんな彼に向ける友人二人の顔は、和葉と同じく、やっぱり呆れ返っている。その内容は、かなり異なっているわけだが。
「お前とゆー奴は……。騎士様はどこに飛んでっちゃったんだよ」
「なに言ってんのチュー太君。俺は現代の高校生だよ? いつまでも騎士のまんまでいられるわけないでしょ」
「現代の高校生だって、他の女との浮気現場を目撃された奴が、フツーそこまで図々しくはなれないもんだがな。──で?」
 陽介は冷ややかに言い放ったが、走りながらさらに耳を寄せてきた。興味は津々であるらしい。
 だがそこで、拓海はがっくりと肩を落としてうな垂れた。
「……唇にキスする寸前で、雪菜が帰ってきた……」
 お約束である。
「それで結局、何も出来なかったんだけど。あ、そういえば、お前らはあれからどうしたの? 俺、今日まだ和葉さんと顔合わせてないから、あの後のこと聞いてないんだよね」
 もちろん、石崎とも会っていない。あたしに任せておいて、と和葉は請け負っていたが、今後また、向こうからのリアクションがあるようなら、何か考えておかないといけないかもしれないし──と、少々警戒交じりで訊ねると、陽介と宙人は揃ってぴたりと口を閉ざした。
 しばらくの沈黙の後で、陽介がぼそぼそと言葉を出す。
「……まあ、もうあの石崎って人が、お前とか鏡花さんとかにちょっかいをかけてくることは、二度とないと思う。俺なら確実に、近寄らないし、関わらないでおこうと決心する。あんなことされたら」
「………………」
 保証してくれるのはいいのだが、なんでそんな陰気な顔つきをしているのか謎である。大体、「あんなこと」 って何だ。宙人に至っては、なんだか泣きそうな表情をしているし。
「あの石崎さんといい、和葉さんといい、女の人って怖いよ、拓海。俺さあ、あんな場面を目の当たりにして、生涯のトラウマになりそうだ」
「………………」
 あんな場面って、なんだろう。
 ただでさえ異性に対してウブな宙人が、この上女性不信のトラウマまで背負ってしまったら、気の毒に、彼女を作るのなんてもう絶望的ではないか、と拓海は思う。一体和葉は、石崎に何をしたんだか。怖いから、もう聞かないけど。
「ふーん……」
 曖昧に頷いて、拓海は走りながら顔を上に向け、頭上に目をやった。そこには、清々しいくらいに澄んだ青空が広がっている。まるで今の拓海の胸の中みたいに。
 雲ひとつない。迷いもなく、悩みもなく、晴れ渡っている。友人たちの言葉を聞いて安心したというわけではなく、ずっと、そうなのだ。
 たとえば──また、石崎が、あるいは別の女の子が、何かを言ってきたり、してきたりしても。
 拓海はもう、あんな間違いをおかしたりはしないだろう。性格はそうそう変わらないから、怒ったり感情的になったりはするかもしれないのだが、少なくともブレないではいられるんじゃないか、とは思う。ちょっとばかり自信を持って、そう思える。
 何があったかをきちんと鏡花に話して、鏡花にもなんらかのとばっちりが向かいそうになったなら、その時は二人で相談して、対策を考えればいいのだから。きっと、大丈夫。なんとかなる。自分たちには、心強い味方もいることだし。
 「付き合う」 っていうのはそうやって、お互いに信頼を深めていくことなんだよな、多分。手を繋いだり、キスしたりすることだけを指すんじゃなくて。いや、もちろんそういうことだって、いっぱいしたいに決まってるんだけどさ。
 そんなことが、今の拓海は少しだけ、判ったような気がする。


   ……月に咲く花を、見上げるように。


 拓海はずっと、鏡花に憧れて、恋心を抱き続けてきた。
 空を仰ぎ、目を細め、焦がれ続けていた。遠くにあって、手に入らないもののように思っていたから、なおさら乞うように追い求めていた。昔から──付き合うようになってからも。
 だから、拓海には、いつも不安が付きまとっていたのだろう。無理矢理のように自分の手の中に入れたそれを、逃がさないように、壊さないようにと、それだけを考えて。
 離れていくのが怖くて、鏡花が高校を卒業してしまった後のことなんか考えるのも嫌で、今まで思考を止めてしまっていたのだけれど。
 だけど、今になって、判った。
 ──実質的な距離があってもなくても、変わるか変わらないかは、自分たち次第なのだ。
 拓海にとって、いつだって、「花」 はたったひとつだった。幼馴染だとか、恋人だとか、呼び名だけは変わっても、拓海の中の気持ちは何ひとつ変わらなかった。昔も今も、ひっそりと美しく、咲き続けている花。
 離れて、いろいろあって、もうダメだと諦めたりしたこともあって、けど、自分たちは今も、こうして二人一緒にいる。だったら、この先、向かう場所が違っても、進路が別れても、大丈夫だと信じることだって出来るはず。
 まず、自分がしっかりと、地面に足をつけて立っていなくちゃ。
 でなきゃ、月に向かって手を差し伸べることだって、出来やしない。
 もたれ合うんじゃなくて、お互いに立って支え合って、そうして並んで歩いていけるように。
 またゆっくりと、進んでいこう。


「……そう考えると、もうちょっとこのままプラトニックな愛を育ててもいいんじゃないかって気も、するんだよね。キョーカちゃんと深い仲になりたいのは山々だけど、その欲望はしばらく抑えてみようかなあと」
 今の時点での状況を 「プラトニック」 と呼べるのかどうかという疑問はさておき、空を見上げながら呟くように言った拓海の言葉に、陽介と宙人は、へえ、と感嘆するような声を出した。
「お前にしては、理性的な発言だ」
「そーだよなー、まだ高一なんだから」
 おおむね好意的な同意なのは、なにも二人が健全第一を信条として掲げているから、というわけではないのだろうけれど、拓海は素直に、「うん」 と頷いて、付け足した。
「──ま、せめて俺が二年生になるまではね」
「みじかっ!!」
 感嘆した分、二人同時の突っ込みは素早く、しかも容赦ない。
「お前の 『しばらく抑える』 ってそんな程度なのかよ! つーか、あと二ヶ月くらいしかねえし!」
「しょうがないじゃん、俺だって健康な若い男なんだからさー」
「お前はあと十周くらい校庭を走って、その余りある煩悩を空の彼方に昇華させろ!」
 ぎゃんぎゃん怒鳴る友人たちの声なんてどこ吹く風で、拓海は空に向けていた顔を動かし、鏡花のいる教室がある校舎の方へと向けた。
 そして、気づいた。いつもの窓の、ガラスの向こうにある人影は、間違いなく鏡花だ。しかも、こっちを見てる。もしかして、今までずっと拓海を見ていたのだろうか。
 嬉しくなって、笑顔で手を振った。それだけじゃ足りず、名前を呼ぼうとして口許に手を当てて、「キョ」 と大声を出しかけたところで、両隣から伸びてきたふたつの手に、思いっきり頭ごと押さえつけられた。
「バッ……おま、ただでさえ、今の俺たちは、あそこにいる教師に睨まれてんだぞ! これ以上、目立つ真似をするな!」
「え〜……、だってせっかく、キョーカちゃんが……」
「授業中だから! こんな場所から名前を叫んだら鏡花さんだって迷惑だから! 頼むから、行動の前にちょっとは考えろよ! な?!」
「ええ〜〜……」
 不満たらたらのままだったが、仕方なくラブコールを送ることは諦めて、拓海は再び顔を上げ、鏡花の方を見る。
 ──と。
 鏡花が、目元を和らげ微笑みながら、こちらに向かって手を振っていた。拓海が愛してやまない、あのほんのりとした、優しそうな笑顔で。
「………………」
 ぴた、と唐突に立ち止まった拓海に、陽介と宙人が怪訝そうに振り返る。
「どうした、拓海?」
 訊ねられ、鏡花の方へじっと視線を据え付けたまま、拓海は 「うん……」 と生返事をした。
 心の底から、しんみりとして言う。
「……どーしよ。俺、幸せすぎて、泣けてきた」
「相っ変わらずアホだな、お前!」
 友人たちの罵声が、青い空に響き渡った。



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