月の花

intermissionU −過去編−




 自分の迂闊な言動が元で、鏡花が苛めの対象になっていることを知っても、拓海は何ひとつ、それに対して有効な対策を取ることが出来なかった。鏡花が中二、拓海が中一の、秋のことである。
 焦燥と罪悪感で、頭が変になりそうであったのも本当だが、かといって、彼に出来ることが何もなかった、というのも本当だったのだ。
 もちろん、眠れないくらい、たくさん考えた。
 この出来事の発端となった女子生徒に、頭を下げようかとも何度考えたか判らない。手をついて謝ってもいい。彼女が望むなら、付き合ったっていい。だから、鏡花にはこれ以上辛い思いをさせないでくれ、と。
 しかし、時々校内ですれ違っても、その二年生の女子は、いつも頑なに拓海から目を背けていた。口許はきつく結ばれていて、取り付く島もない。それを見るたび、拓海は思い知るのだ。そんな手段を取ったところで、今となっては手遅れ──どころか、却って状況を悪化させるばかりだと。
 拓海は、自分が、大概の女の子に好意的に見られてしまう顔立ちをしていることを知っていた。そしてそれは、逆に言えば、女の子から嫉妬や悪意を向けられやすい、ということもまた知っていた。その場合、向かう対象は自分ではなく、自分が話したり笑ったりした相手になりがちだということも。
 拓海が鏡花を庇う素振りを見せれば見せるほど、鏡花は苦境に追い込まれていくだろう。それが判ってしまうから、必要以上に近寄れない。こういう時の女の子の嗅覚は非常に鋭敏だから、うっかりと鏡花の名前を口に出すことすら出来なかった。
 拓海に出来ることといったら、この件の詳細を知らない二年生の女子たちに近付いて、細心の注意を払いながら、それとなく情報収集をすることくらいしかない。そのせいで、拓海が女好きだという評判が立ち始めたのもこの頃からだったが、ちっとも気にしなかった。実のところ、もどかしくて、自分自身にも腹が立って、この時期の拓海は、本気で胃腸を壊したくらいだったのだが。
 とにかく、今の状態から鏡花を救い出さないと、というのが何よりの最優先事項だということは判っていた。謝るのはあとからだって出来る、と自分に言い聞かせた。拓海は拓海なりに必死で頭を働かせつつ、焦る気持ちをなんとか宥め、けれど実質的には何も出来ずに過ごした一ヶ月。
 鏡花への苛めが始まってから四ヶ月……拓海が事態に気づいてから一ヶ月が経って、ようやく、その問題は解消した。
 いや──解消していた、のだ。
 拓海の知らないうちに。


 うちのクラスはみんな仲いいよー、とけろりとして言ったのは、鏡花と同じクラスの女の子で、最初、それを聞いた拓海は、苛立ちを顔に出さないようにするのに多大な努力を費やした。
「へえ、そうなんだ」
 表面上は愛想のいい笑みを浮かべて、拓海は相槌を打った。彼が鏡花のことを知っていて、それについての情報を少しでも得ようとしているなんてこと、相手には決して気づかせてはならないから、注意深く話を進めていくしかない。
「けど、俺、噂で聞いたよ。センパイのクラス、女の子がひとり、孤立してるって」
「やだ、誰がそんなこと言ったの」
 女の子はちょっと気まずげな顔をした。苛々が増したが、懸命に抑える。
「俺、あのクラスに近所のお兄さんがいるんだよね」
 それは別に嘘ではない。「お兄さん」 なんて気色の悪い呼び方をするほど仲良くはなかったが、同じ地区に住む知り合いがいるのは確かで、その彼から鏡花のことを聞いたというのも事実である。
「なんか、みんなしてその女の子を無視したりしてんでしょ。女の世界は怖いよなあ、って、そのお兄さんが言ってたよ」
「ええ〜、やだなあ。まあ、そういうことがあったのは本当だけどさ」
「あっ……た?」
 問い返す自分の声が、ほんの少し掠れた。幸い、話し相手の方はそんなことには気がつかず、照れくさそうな表情で、あっけらかんとして続けた。
「でも、今はもう、そんなことしてないよ。だってさ、その女の子、周囲にいくら無視されても、ずっと態度が変わらないんだもん。こっちが返事しなくても、変わりなく話しかけてくるんだよね。泣くでもなし、怒るでもなし、先生に言うでもなし。頭のいい子だから、テスト前の時だけ聞きに行く図々しい子がいたりしたんだけど、そんな相手にも、親切に教えてくれるしね。そういうの見てたら、なんだか、こっちが恥ずかしくなってきちゃって」
「────……」
 拓海は返事をしなかった。……というより、出来なかったのだ。
「大体、そういうことをはじめに言い出したヤツにも、理由なんて、あってないようなもんだったんじゃないかな。なのに、そいつにも、『悪いところがあったなら、謝ります』 なんて、生真面目に頭を下げちゃうしさ。あたしたちも、もう馬鹿馬鹿しくなっちゃって。誰からともなく話しかけるようになって、今ではみんなと普通に喋ってるよ。まあ、首謀者のヤツだけは今も意地張って口きかないみたいだけど、今ではそっちのほうが周りに嫌われ始めてるしさあ──」
 女の子の話は、そのあとも途切れることなく延々と続いていたが、拓海は、なんとかその場に留まって、普通の顔をし続けるために自制心を保つので精一杯だった。
 全身から、力が抜けていった。


 ……結局。
 結局、鏡花は自分で、自分だけの力で、その問題を解決したのだった。
 ほんの少数の理解者と、あとはひたすら自分の意思と自分の行動で、誠実な態度を貫き通し、結果としてクラスメートたちの信頼を得て、彼女は現状を打破することに成功したのだ。
 拓海が、心配して躍起になることもなかった。拓海はただ、この状況を作り出した張本人、というだけで、あとは何もしなかったし、出来なかった。見ているだけで、なんにも。
 鏡花は自分で自分を救った。それだけの強さを持っていた。彼女を救い出すだって? なんておこがましい、傲慢な考え方だったのか。鏡花は、自分の助けなんて、これっぽっちも必要としていない。今も、昔も。
 はは、と拓海は声にならない声でちいさく笑った。だってもう、笑うしかない。あまりにも自分が滑稽すぎて。
 拓海の浅はかな対応で鏡花を苦しませ、そのことについて謝罪することも出来なかった。鏡花は何も悪くなんてないのに、拓海の代わりに頭を下げて、頑張って、努力して、自分の力で扉を開いたのだ。拓海自身は、何も、何ひとつとして、それについて手助けすることも出来ないまま。
 昔と何も変わってやしない。拓海はあの頃と同じ無力な子供で、鏡花を守ることも出来ず、空回りし続けるだけだった。
 鏡花の近くから離れたのは、こんな風になることを望んだからではなかった。時間を置いて、もう 「子供」 ではない拓海を、鏡花に正面から見てもらうためだった。高校生になったら、ずっと好きだったことを打ち明けて、だから付き合って欲しいと、彼女に真っ向から申し込むつもりだった。
 ──けど、もう、無理だ。
 こんな自分、鏡花の隣に行く資格なんてない。
 ずっと、好きだった。本当に、好きだったけれど。
 そんなことも、言えやしない。
 だって、どのツラ下げて、そんなことが言える?
 拓海は、鏡花の前から逃げることしかしなかったのに。


          ***


 好き、と言ってきた女の子の顔を、拓海は黙って見返した。
「………………」
 俺、好きなひとがいるから付き合えない、という、ほとんど口癖になってしまったような返事を、その時は、喉の奥で止めた。
 拓海が今まで、何人に告白されようと、誰とも付き合うつもりなんてなかったのは、鏡花がいたからだ。
 彼がいつも一緒にいたいと願っていたのは彼女だけで、そしてその願いは、いつか叶うものだと無邪気に信じ続けてもいたからだ。だから、今まで断りとおしていたのだけれど。
 でも──もう、それは叶わなくなってしまった。
 拓海は、自分自身で、その希望の蓋を閉じてしまった。
 ぽつりと、独り言のように言った。
「……俺、好きなひとがいるんだ」
 それでも、拓海は鏡花のことが好きだった。いや、以前よりもいっそう、その気持ちは大きくなっていた。
 大人しく弱そうに見えて、でも根っこのところでは、しっかりと揺らぐことなく 「自分」 を持ち続けている鏡花。どんな状況であっても、前を向いて、進んでいける鏡花。そういう彼女を改めて綺麗だと思ったし、彼女に憧れて、焦がれるような思いは激しくなる一方だった。
 けど、鏡花はこの先も一人でだって、進んで行けるだろう。拓海が傍になんていなくても。「大丈夫」 と拓海を切り離し、こっそりとどこかで泣いていても、拓海の前ではそれを見せようともせず、穏やかに微笑むだけで、決して寄りかかることもなく。
 子供の頃から、ずっとそうだったように。
「好きな人……その人と、付き合ってるの?」
「……いや」
 付き合う、なんていうのは、実を言えば、拓海にとってそれほど重要なことではなかった。
 ただ、鏡花のいちばん近くにいて、その笑顔を向けられる相手でありたかった。彼女が困った時に、最初に頼られる男でありたかった。手を伸ばしたら、すぐに届く場所にいたかった。それだけだった。
 その場所は、もう、こんなにも遠い。
「それなら──あたしと付き合って。好きな人が、いてもいいから」
「………………」
 拓海は自分の前にいる女の子の顔を半ば虚ろな瞳で見て、それから、また目線を下に落とした。
 そう、と小さく呟く。
「……だったら、いいよ」
 その声は、どこか離れた場所から聞こえる他人の声のようだ。
 静かに目を閉じたら、一粒の雫が、ぽとりと地面に向かって落ちた。


 それからの拓海は、言われるがまま、何人かの女の子と付き合っては別れた。「好きなひとがいる」 という言葉に 「それでもいい」 と返してくる女の子に対して、拓海にはもう、それ以上の断りの理由がなくなっていた。
 ただ、付き合う期間は短かった。二股は掛けない、というのは最低限決めていたことだったが、そんなことを決めなくたって特に問題はなかったかもしれない。女の子たちは、どの子もみんな、しばらくすると拓海の許から離れていったからだ。
 他に好きな子が出来たから、という理由の時もあったし、拓海君って思ったほど優しくないから、という理由の時もあった。けれど、一番の大きな理由は、拓海の態度が付き合う前と後とで、まったく何も変わらなかったから、というのがあるようだった。
 女の子たちはみんな、よく喋ったし、よく笑った。好きな人がいてもいいから付き合って、と言うだけのことはあって、誰もが自信に満ちて、積極的な子ばかりでもあった。
 そういう子たちと一緒にいて、まったく楽しくなかった、なんてことはもちろんないし、行為を迫ってきたのは相手でも、その誘いに乗ったのは自分だ。拓海は拓海で、それなりに誠意をもって付き合ったつもりだった。
 けれど、しばらく経つと、女の子たちは必ず、不満そうな顔をするようになるのだ。泣かれたこともある。
 拓海君、あたしのこと、ちっとも好きになってくれない──と。
 そう言われても、拓海は戸惑うだけだった。冷たい振る舞いをした覚えはないし、ぞんざいに扱ったこともない。けれど、彼女達は口を揃えて言うのだ。それは 「彼女」 に向ける態度じゃない。他のクラスメートに対する時と、まったく変わらない、と。
 好きなひとがいてもいい、といった前提を受け入れたのは彼女たちのほうなのに、実際に付き合い始めると、誰も彼もがそれについて拓海を非難した。
 それでも拓海が変わらないと、彼女たちは、あるいは怒り、あるいは悲しみ、あるいは失望して、去っていく。
 けれど、拓海はなんとも思わなかった。引き止めもしなかったし、追うこともなかった。この場合、悪いのは自分なのかもしれないとも思ったが、誰に対しても心が動くことがなかったのだから、しょうがない。
 拓海の目と気持ちは、鏡花が中学を卒業するまで、いいや卒業してからも、いつだって彼女のほうだけを向いていた。どうしても、止められなかった。誰と付き合っていても、そうだった。
 ……それを責められても詰られても、彼自身にだって、どうしようもなかったのだ。



 三年生になってから付き合い始めた女の子は、校内でも際立って頭のいいことでよく知られる子だった。
 さばさばしていて、気性がはっきりしており、他人に迎合することもないマイペースな子だったが、その分、拓海にとっては今までの誰よりも気軽に話せる相手だった。
 ひょっとして、この子とだったら、上手くやっていけるのかもしれないな、なんてことを、次第に拓海も思うようになっていた……そんな、頃。
 拓海は偶然、駅前で、もう高校生になっていた鏡花を見かけた。

 ──彼女は、同じ高校の生徒らしい、見知らぬ男と一緒にいた。

 鏡花は俯きがちで、そんな彼女に男が何かを話し掛けていた。拓海はすぐに、踵を返してその場から走り去った。逃げたのだ。一秒だって、そんなところは見たくなかったから。
「……っ……」
 知らないうちに歯を喰いしばり、顔からは血の気が失せていた。鼓動が大きな音を立てて、暴れまわっている。動揺して、頭がぐらぐらして、気持ちが悪かった。吐き気がする。
 走って、走って、息が上がるくらい全速力で走り続け、家に帰り着くと、胸に突き上げる衝動のまま、携帯を手に取っていた。
 呼び出し音が途切れて、はい、と相手が出た途端、一気に言葉が口から飛び出した。
「ごめん。ごめん、俺、やっぱり駄目だ。俺もう付き合えない」
「………………」
 いきなりの別れ話に、携帯の向こうで、相手はしばらく無言だった。ややあって、「……なんで?」 という当然の問いかけがあったが、その声は取り乱すこともなく、落ち着いている。
 それを聞いた瞬間、拓海は、この少女に今までの女の子たちとは違う親しみを感じていた理由をはっきりと悟った。この彼女は、少しだけ、鏡花と共通した部分があったからだ。
「ごめん。俺、やっぱり、あの子を諦められない。好きなんだ。どうしたって、好きな気持ちは諦められない」
 諦めようとはしたけど、全然、諦められてなんかなかった。鏡花が知らない男と一緒にいるのを目の当たりにしただけで、こんなに、情けないほど揺れ動いている自分がいるのに。
 あの時、拓海は完全に部外者だった。鏡花が他の男と話していても、笑いかけていたとしても、今の拓海にはそこに割り込む権利は針の先ほどもないと痛感したからこそ、これだけの衝撃を受けている。
 こんなにもまだ、鏡花のことを好きでいるのを思い知らされた。その気持ちはこれからも強くなりこそすれ、なくなることはない。それを自分で嫌というほど自覚できるのに、それでも他の女の子と付き合うことを続けるほど、拓海は図太くはいられなかった。
 女の子は、また少し沈黙を続けたが、やがて、
「──で?」
 と、口調を変えずに聞いた。
「だから、俺、もう、君とは」
「それは聞いた。で、拓海君は、あたしと別れて、どうすんの? その好きな人のところに行って、ちゃんと気持ちを伝えるの?」
「………………」
 それは──と言いかけ、唇を噛み締める。鏡花の隣に行くことを諦めて、他の女の子と付き合うことに肯っていたのは自分だが、それをやめたからって、すぐに鏡花に気持ちを伝えるなんてことは出来ない。
「それじゃ、何も変わんないじゃない。拓海君が諦められなくても、それを相手に伝えもしないんじゃ、ただの片思いのままでしょ。今の状況と、どこがどう違うの? そうしているうちに、相手には他に好きな人が出来るかもしれないし、誰かと付き合うかもしれない。ますます拓海君の出る幕はなくなるだけよ。それでもいいの?」
「いやだ」
 思わず、否定の言葉が口から出た。言わずにはいられなかった。鏡花が誰か他の男と付き合うようになるなんて、考えるだけで、眩暈がしそうなほど、嫌だった。
「じゃあ、どうすんの?」
「……彼女と、同じ高校に行く」
 追及されて、とりあえず、拓海が出した答はそれだ。とにかく、少しでも鏡花の近くに行きたいと、それだけが頭の中にあったのだろう。
「どこの高校?」
 と訊ねられ、拓海は素直に、鏡花の高校名を口にした。携帯の向こうで、絶句する気配がする。
「言いたくないけど、今の拓海君の成績じゃ、合格するのは絶望的ね」
 容赦のない言葉だったが、それは紛れもなく真実でもあるので、拓海は何も言い返さない。鏡花と付き合うことを諦めた時点で、彼女に追いつくための勉強をするのをほとんど放棄していたのだから、当然の結果として、今のこの状況がある。そのツケを払うための努力を負う覚悟くらいはあった。
 携帯の向こうで、相手は深い溜め息をつき、「……しょうがない」 と呟いた。
「あたしが勉強を教えてあげるわよ。あんなもの、結局はコツなの。コツを掴みさえすれば、そこそこ成績は上がるはずだから。今からどこまで内申が上がるのか心許ないけど、あたしがやり方を伝授してあげる」
「え、でも」
 拓海はうろたえて言った。まさか、別れを切り出した相手にそんなことを言われるとは、思ってもいなかった。
「もちろん、『彼女』 としてじゃなく、『友達』 としてね。あたしはそこよりも上の高校狙ってるし、自分の復習のつもりで、教えてあげるわよ。……言っとくけど、これは仕返しだからね」
「仕返し?」
 困惑して問い返すと、女の子は、少しだけ笑った。
「あたし、これでも結構傷ついてるんだから。拓海君にどんな事情があって、ぐずぐずと立ち止まってるのか知らないけど、そんな事情なんて斟酌してやんない、ってことよ。強制的に背中を突き飛ばして、前へと押し出してやるわ。いつまでもフラフラして、ぬるま湯に浸かっていることなんて、許さない。振られるなら振られるでハッキリさせて、死ぬほど泣くといいのよ」
「………………」
 陽気な言い方ではあったが、彼女が努力でそうしているのが判ったから、拓海は何も返すことが出来なかった。はじめて、胸が痛んだ。
 ごめん、ともう一度言いかけ、けれどその言葉は、彼女に対して失礼だと思い留まり、なんと言えばいいのか、考える。
 考えた末、結局出てきた、
「……ありがとう」
 というありきたりな言葉に、それでも女の子は、明るく笑ってくれた。

 拓海はぐっと、空いているほうの拳を強く握り締める。決意と共に。
 努力して、頑張って、そうして鏡花と同じ高校に合格できたなら。
 ──できたなら、その時は、もう一度、鏡花に会いに行こう。

 君の、いちばん近くにいたいんだ。


          ***


「あれ……」
 と、声を出した鏡花に、向かい合った相手は、きょとんとした顔をした。
「どうかした?」
 訊ねられて、お礼を言っている最中であったことを思い出した。彼のほうに向き直って、改めて頭を下げる。
「なんでもないです。……どうも、ありがとうございました、わざわざ」
「いや、いいけど。もう、大丈夫?」
「はい。すみません、途中下車させてしまって」
 学校から帰る途中、電車に乗っていたら、突然気分が悪くなってしまったのだ。吊り革を握って青い顔をしていたところを、同じ高校の生徒らしいこの人物が声を掛けてくれて、座席に座っていた人に頼んで譲ってもらい、座らせることまでしてくれた。
 そして、こうして駅を降りるところまで付いてきてくれたわけだが、実を言えば鏡花は、この親切な男子生徒が誰なのか、さっぱり知らないのであった。上級生であることくらいは判るのだが。
「じゃあ俺、行くけど。一人で家まで帰れる?」
「はい。多分、妹がもう帰ってると思うので。迎えに来てもらいます」
 そう、と頷くと、男子生徒はまた駅の改札の方に戻っていった。結局、最後まで名前も知らないままである。校内で会えたら、またお礼を言えばいいだろうか。
 家に電話するために携帯を取り出そうとして、鏡花はふと、さっき見ていた方向へ顔を戻した。
 ──拓海が、いたような気がしたのだけど。
 すぐに背中を向けて駆け出していった男の子が、拓海によく似ていたように思ったのだ。ほんの一瞬だったので、確証はないのだけれど。
(ちっちゃい頃だったら、気軽にこっちに来てくれたんだろうけどな)
 キョーカちゃん、と笑いながら、手を振りつつやって来て、気分が悪いの? じゃあ、俺がおぶっていってやるよ──なんて。
 昔の拓海なら、そんなことを言ってくれたかもしれないなあ……とぼんやり考えて、急いで打ち消す。
(もう、昔とは違うんだから)
 ばったりと顔を合わせても、声も掛けないまま背中を向ける。こんなにも今の自分たちは隔たっていて、きっと、これからも交わることはないのだろう。幼馴染とはそういうものなのかもしれない。
 寂しいことではあるけれど、それは、仕方のないこと。
 ただ──どこかで。
 鏡花はもう関わることのない彼の世界で、いつもあの子が笑っていればいいなと、願うだけだ。
 小さい頃の拓海のあの笑顔を、どんなに自分が愛しく思っていたかなんて、拓海はこの先も、知らないままでいい。
 ……今も鏡花の胸の中にあるその存在が、時には支えに、時には勇気にとなってくれていることも。



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